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近代の種痘規則と相良知安

2024年04月22日

 洋学 at 10:32  | Comments(0) | 科学史 | 洋学 | 地域史 | 日本史 | 医学史
◆近代の種痘と医制
◆佐賀藩が全国に先駆けて、牛痘種痘の接種に成功したことはよく知られている。しかも好生館で全領内へ組織的な接種を無料で実施したことも、青木歳幸「牛痘伝来再考」・「佐賀藩の種痘」(『天然痘との闘い 九州の種痘』、岩田書院、2018)などで詳細に明らかになった。
◆今回、佐賀医学史会報185号に、南里早智子さんが調査解読した種痘医の島田良意の履歴書を掲載するにあたり、種痘規則について整理してみた。
◆佐賀藩が嘉永2年(1849)に、全国にさきがけて、天然痘予防の種痘実施に成功し、全国へ分苗するとともに、好生館が主導して領内全域へ無料で組織的に実施した。
◆明治時代になっても種痘を組織的に全国で実施する必要性があったので、佐賀藩好生館出身の相良知安(医学校取調掛、のち大学東校校長)は、大学東校時代の明治3年(1870)に「大学東校種痘館規則」を制定し、種痘を行う者は必ず大学東校に入校して種痘技術を習得することとした。
◆しかし、これは全国に広がっていたという無数の種痘医たちの実情と彼らの生活を無視した内容だったので、翌年「種痘局規則」を制定し、従来の種痘医は、師家より習熟の証書を得て、履歴書に添えて地方役所に提出すれば免状を与えるとした。
◆この方針は、相良知安起草の「医制略則」(明治6年ごろ)第36章(条)に「天然痘病理治方ノ概略及ヒ牛痘ノ性状種法ヲ心得タルモノヲ検シ種痘免状ヲ与ヘ施術ヲ許す〔牛痘種法条例別冊アリ〕」となり、長与専斎公布の「医制」(明治7年8月18日公布)第37条の「種痘ハ天然痘病理治方ノ概略及ヒ牛痘ノ性状種法ヲ心得タル者ヲ撿シ仮免状ヲ与ヘテ施術ヲ許ス」にそのまま受け継がれた。
◆この方針は明治9年(1876)の「種痘医規則」にも受け継がれ、医師とは別に、種痘医という身分と開業が確保されるとともに、種痘に関する法制も相良知安が構想した明治3年の「種痘規則」に基づいて全国的に広がったのだった。種痘という観点からも、佐賀藩の影響が、医制に強くあったことが理解できよう。  


新刊紹介『医学教育の歴史 古今と東西』

2019年03月19日

 洋学 at 11:48  | Comments(0) | 科学史 | 漢方医学 | 洋学 | 日本史 | 外科学 | 種痘
◆坂井建雄編『医学教育の歴史‐古今と東西』(法政大学出版局、2019年3月20日、572頁プラス13頁、6400円プラス税)である。
◆第Ⅰ部は西洋の医学教育で、第1章坂井達雄「ヨーロッパの医学教育史<1>十八世紀以前の西洋伝統医学教育」(5~54頁)、同第2章「ヨーロッパの医学教育<2>、十九世紀以後の西洋近代医学の成立と特徴(55~140頁)の2大論文に続いて、第3章永島剛「近代ロンドンの病院医学校と医師資格制度 セント・トマス病院医学校を中心として」(141~178頁)が、ヨーロッパ医学史を展望している。
◆第Ⅱ部が日本近世の医学教育で、第4章町泉寿郎「江戸時代の医学教育<1> 瀬戸内地方の事例を中心に」(179~216頁)、海原亮「江戸時代の教育<2> 米沢藩の事例から」(217~258頁)。青木歳幸「江戸時代の医学教育<3> 佐賀藩医学教育史」(259~300頁)と近世の医学教育と地域の近代医学教育への接点を拠点的に描いた。
◆第Ⅲ章日本近現代の教育では、第7章坂井建雄「近現代の医学教育の概観 明治以降の医師養成制度と医学校の変遷」(303~318頁)、第8章 近現代の医学教育の諸相<1>相川忠臣、ハルメンボイケルス「十九世紀のオランダ語基礎医学教科書と蘭人教師たちの影響」(319~392頁)、澤井直「近現代の医学教育の諸相<2> 明治・大正・昭和初期の医師資格制度と医学教育機関’(393~434頁)、第10章逢見憲一「臨床医学教育における医師と医学の原像と執拗低音、「ドイツ医学」と「アメリカ医学」の変容に関する一試論」(354~482頁)、渡部幹夫「臨床医学教育と疾病構造の変化(483~530頁)、勝井恵子「昭和期における医療倫理教育」(531~572頁)と続く。
◆本書のカバーでの宣伝文句は「西洋と日本医学の知はどう継承されてきたか」、医師養成と知識継承の歴史、初の全体像」とある。じつは我が国医学教育の歴史は、山崎佐氏の『各藩医学教育の展望』以来、現在まで約60年の長きにわたって総括的に論じた書籍はでていない。本書がその大きな基本書となるだろうことを確信している。
◆価格的にも570頁もの書籍を、出版事情の厳しいなかで、6400円という価格で出版したという。驚きである。3月26日ごろには大手書店の店頭にならぶとのこと、多くの関心ある人に手に取ってもらって、また図書館などでも購入してほしいと思う。  


丸亀の種痘医 河田雄禎

2018年11月10日

 洋学 at 00:09  | Comments(0) | 科学史 | 漢方医学 | 洋学 | 文化史 | 地域史 | 日本史 | 蘭学
◆今日は丸亀の種痘医河田雄禎墓碑調査。丸亀駅についてレンタカーで浄土宗寿覚院へ。墓地内を探索させていただくと、見付かった。墓には雄禎でなく河田宅治とある。
◆碑文を読むと緒方洪庵門人で、洪庵から牛痘を分けてもらって、嘉永3年2月に讃岐で最初の種痘をした人物であることなどが書いてあった。
◆墓碑が新しくなっていたので、もしかして御子孫が健在なのだろうかと思い、御子孫の河田さんの住所を住職さんをお尋ねしたら、連絡をとってみますとのこと。連絡がきたら、また丸亀に調査にこなくては。それはそれで新しい資料が見付かる可能性があるので楽しみではある。
◆ちょっと古い『香川の郷土の人物』の図書記事によれば、河田雄禎宅治の旧医院は、吉田病院の近くにあるという。その記事をたよりに、初めて丸亀市内を歩いてみた。しかし、吉田病院は大きな病院ですぐわかったが、どうにも河田医院の痕跡がない。近くの古い御菓子屋さんに入って聞いたら。図書の記事の吉田病院は吉田病院のケアハウスになっていて、現在建っている大きな吉田病院のところが旧河田医院だったという。
◆というわけで旧河田医院跡を確認したあとは、一路、徳島へ。明日午前中に徳島で関関斎と井上不鳴という医師の調査をしてから高知へ向かう予定。関寛斎は知る人ぞ知る有名人だが、井上不鳴は不鳴だけにほとんど不明。  


『天然痘との闘いー九州の種痘』の刊行

2018年07月03日

 洋学 at 05:42  | Comments(0) | 科学史 | 洋学 | 文化交流史 | 地域史 | 日本史 | 蘭学 | 種痘
◆ようやく青木歳幸・大島明秀・W.ミヒェル編『天然痘との闘いー九州の種痘』(岩田書院、2018年6月、7200円+税)が刊行された。私が代表の科研費C「九州諸地域の種痘伝播と地域医療の近代化をめぐる基礎的研究」の研究成果である。
◆内容は、九州の種痘概要(青木歳幸)、天然痘(相川忠臣)、人痘法の展開(青木歳幸)、ヨーロッパ人が観た日本における天然痘(W.ミヒェル)、牛痘伝来前史(青木歳幸)、牛痘伝来再考(青木歳幸)、長崎と牛痘(相川忠臣)、大村藩の種痘(山内勇輝)、佐賀の疱瘡神(金子信二)、佐賀藩の種痘(青木歳幸)、多久領の種痘(青木歳幸・保利亜夏里)、長州藩の医学館と種痘(小川亜弥子)、小倉領の種痘(青木歳幸)、武谷祐之と福岡藩における牛痘の導入(W.ミヒェル)、久留米藩の医学(吉田洋一)、中津藩における天然痘との闘い(W.ミヒェル)、熊本藩の治痘(大島明秀)、天草の種痘(青木歳幸)、若山健海と宮崎の種痘(海原亮)、薩摩藩黒江家文書にみる種痘(今城正広)、薩摩藩の種痘(田村省三)、人痘と牛痘の比較と評価(W.ミヒェル)の各論考がある。
◆とくに従来研究史上で確定できていなかった牛痘伝来日が嘉永2年6月23日(西暦1849年8月11日)で、最初の接種日が6月26日(1849年8月14日)であることが柴田方庵らの長崎滞在日記等日本側の史料で確定できたこと、天草の種痘と大村藩の種痘は種痘山の設置などの隔離政策やらで交流しあい、牛痘伝来後もやはり大村藩の影響をうけて牛痘接種を開始したこと、ポンペが再帰牛痘法を実施した安政5年には、小倉領の医師が同様の方法を試みていたこと、従来不明だった宮崎県域の種痘史料が今回見出され、長崎や薩摩藩領からの伝播であったことなど、九州各地への種痘伝播の実態と経路を明らかにできたことがなによりも大きい。
◆種痘は技術だから、あまり影響はなかったのではないかという見方もあったが、中津では種痘技術を高めるために民間医らが医学校を創立しさらに付属病院もつくり、熊本でも種痘を学んだ医師らが教師だった吉雄圭斎を古城医学校の校長に招くなど、種痘普及により西洋医学の有用性が、庶民や行政にも理解され、地域医療の近代化につながった大きな要因となったことを確認できた。
◆さらに、佐賀藩や長州藩にみられる組織的な種痘実施のしくみは、わが国予防医学や衛生行政の発達にも、大きく寄与していたのだった。
◆論文調であって読みにくい向きもあろうが、種痘導入の出発地である九州の種痘の状況を把握することで、全国的展開の基礎的知識を得ることができる。たとえば、種痘成功後、長崎では種痘所を7日目ごとに開き、種痘を長崎の人々に実施した。この7日目ルールは種痘の広がりを調査するとき、共通の留意すべきことである。
◆各地の学芸員さんはほかの誰よりも史料の存在を知っているので、学芸員さんとの協働で、宮崎県黒江家文書のように博物館所蔵種痘資料を新史料として紹介できたことも大きな成果を生んだ重要なことであった。
◆今後も、中国・四国、近畿、中部・東海・北陸、関東、
東北、北海道の各所の種痘伝播の過程と地域医療の実態について、各地の学芸員さんや地元の研究者らとともに調査を続け、研究報告書以外にも、このような本を刊行し、全国的な種痘研究の基礎資料を集成し、各地の地域医療の近代化の諸相を明らかにしたいと考えている。
◆ちょっと専門書的で高額なので、お知り合いの図書館などへもおすすめくださってお読みいただければ幸いです。
  


天草の疱瘡流行と隔離山小屋

2018年01月07日

 洋学 at 20:40  | Comments(0) | 科学史 | 漢方医学 | 洋学 | 文化史 | 地域史 | 日本史 | 種痘
天草の疱瘡流行
天草地方でも天然痘の流行は頻繁に繰り返された。『天草近代年譜』によると、寛政六年(一七九四)に志岐村が一村あげて疱瘡に罹り、享和元年(一八〇一)には、崎津村に疱瘡が大流行し、罹病者は五〇〇人余りに及び、近村や郡中からも助勢がきて、島原表からも医師が来て救護にあたったので、流行当初は、患者の七割ほどが死亡したが、段々緩和されるようになった。
文化六年(一八〇九)八月には、志岐村で疱瘡が大流行した。小野田代官、町年寄、町庄屋等が、同村へ出張詰切り防疫に努めたが、九月に入り、益々猖獗を極めたため、同村の大庄屋平井為五郎は、隣村の坂瀬川村へ立ち退くことになった。一〇月になっても、志岐村の疱瘡流行は止まず、大庄屋たちは年貢の納期であるので、会所詰めの者は手落ちがあってはいけないので、この際、大庄屋や庄屋など年貢納入に関わる者は、すべて疱瘡相済み候者を宛ててほしいという要求を役所に出したほどだった。文化七年(一八一〇)二月になって志岐村、三月には富岡町の疱瘡流行がようやく終熄した。
文政三年(一八二〇)三月には、痘病(天然痘)がまた流行し始め、志岐村・内田村一帯に蔓延した。天保五年(一八三四)崎津村で疱瘡が大流行し、村中が極難に陥った。天保一三年(一八四二)には富岡町と志岐村に疱瘡が発生し、次第に蔓延しはじめた。二月には大流行となり、同所は出入り止めとなり、罹病者は一〇〇〇人余、死者は五〇余人にも上った。
疱瘡対策としての山小屋
このように天草地方では、疱瘡の流行が繰り返された。その対策の一つとして山小屋に隔離するならわしが生まれた。天草地方の疱瘡山小屋については、東昇『近世の村と地域情報』(二〇一六)に詳しい。
東昇氏によれば、山小屋の規定は、宝永六年(一七〇九)一〇月、「疱瘡人入申小屋并看病人仕様御請申上候覚」(上田家文書)という郡内の大庄屋から富岡役所に、郡中村々にいる疱瘡患者に対し、山小屋を建て、そこに隔離する願書が出されたのが初見という。
そこには、田畑に影響のない場所に、一人あたり二間四方の場所を確保し、一村で一五人から二〇人までの患者を隔離収容して、養生させること、それ以上の流行は、自家で看病するが、看病人以外の者は村外れに除くこととすること、たとい一村で五人、三人相患い候ものが出れば山小屋に入れるが、患者一人につき看病人二人宛つけ、近所の医師を派遣し療養させることなどを取り決めている。費用はまず村で負担し、まかない切れないときは、郡役所に相談することと決められた。
以後、疱瘡患者がでると、山小屋への隔離は常態化し、安永二年(一七七三)三月には、本戸馬場村の九人が、山小屋送りとなっている。
文化四年の高浜村での流行
文化四年一一月二八日に病死した漁師慶助の葬式に参列した二〇人が疱瘡に感染し、つぎつぎと高浜村内に蔓延した。一二月一四日に八軒、一五日に一二軒、四〇人余りが山入りをした。
高浜村を中心に活動していた宮田医師が山小屋に派遣され、治療にあたった。山小屋に入った宮田医師は一二月一八日に二通の書状を高浜村庄屋上田宜珍に送った。つぎつぎと山小屋に送られてくる疱瘡患者を、重病と軽症にわけ、薬用についても詳細に記録するとともに、一二月の寒さよけのため、酒や古衣類などを送ってほしい、肴も足りないなど、難儀していることを報告している。もう一通では二一人が死去したこと、そのうち薬を使用しなかったのが九人、あとの一二人は薬を使用したが亡くなったこと、雨が降ると薬をとりに行けないので、笠一本と下駄を持ってきてほしいとある。庄屋上田宜珍は、早速、肴や糧米、薬種を山へ送っている。
最初の発生から約一ヶ月後、宜珍は、一二月二五日付けで、病人八〇人、死者一六人(ママ)、看病人一二〇人、除小屋一〇一人と富岡役所へ報告した。除小屋というのは、患者の家族が避難するための小屋で、村はずれに建てられた。
翌文化五年正月、宜珍は、富岡役所の小川仁兵衛ほかへ年頭挨拶がてら病人の様子などを報告した。村内外から銭、米、麦、味噌、塩など救援物資がつぎつぎと宜珍のもとに送られてきた。宜珍は、それらを「諏訪疱瘡一件救方届書」として作成し、疱瘡が終熄したとみて富岡役所へ提出した。
ところが終息したかにみえた疱瘡が、二月一七日から再発して、再び山行きが始まった。三月七日までに病人一五人が山へ送られ、内一二人が死亡した。その後しばらく再発が無かったので、三月一〇日に宮田医師宅に、村役人らが御礼に伺い、その後、謝礼として銭一貫五〇〇目、米三俵、樽一を渡している。
三月二四日には、一二月一四日から山入りしていた者たちの帰村を許可したため、以後、ぞくぞくと帰村が始まり、ようやく終息したと安堵の気持ちが村に広がった。
四月一〇日には、看病費の額について村からの支出が提案された。男の看病費は大江村の八〇日=三五〇目を基準として、今回は一〇〇日と長期だったので、五〇目増の四〇〇目、女の看病費は三〇〇目とされた。山へ輸送などを行った山賃銭については、男の場合、初山三〇〇目、二番二〇〇目など計七五〇目とし、女子の山賃銭は計五八〇目としている。
なお北野典夫氏によれば、山小屋と麓の村との連絡は、旗を振って行ったことが多く、赤い旗が振られたら食糧が不足している合図で、それをみた麓の村では疱瘡わずらい済みの者が米俵やカライモを背負って山小屋に届けることにしていた。白い旗が振られたら、死者がでた合図、麓の村では、みんな山小屋に向かって合掌したと伝えられる(『大和心を人問わば』一九八九)。
他国養生の悲惨
高浜村では、終熄したかにみえた疱瘡が、またまた、四月四日から四月二五日にかけて、再度一七人の疱瘡病人が散発的に発生した。四月四日に見出された諏訪久平の娘は、今度山入りをしたらまたまた疱瘡が跡をひくかもしれないから。山入りでなく他国へ養生することになり、村から往来手形と銭七〇〇目が支給され、他国養生に向かわされた。以後の発生患者も他国養生となり、五月一三日の記録では、他国養生分として、合計で丁銭一〇四貫五〇〇文が村中から支給されたことがわかる。
他国養生の行方はどうなったか。五月一九日の役所への報告書には、未だ罷り帰り申さず候、それ以後村方に一人も病人が発生しないので、流行は終息したと判断された。他国養生の多くは、そのまま村外追放のかたちで、他国で息絶えたのだろう。ただ、この時に他国養生した元吉倅が、実際に治癒して帰宅した事例も一例知られている。全快すれば、帰村が許されてはいた。
文化一〇年(一八一三)正月末に、一五〇〇人ほどの大江組の崎津村で疱瘡が大流行して、港の対岸に約二〇〇人が小屋掛けして避難し、村境の梅木山へ逃げた者三〇〇人ほど、船に乗り込んで海に逃げ込んだ者五、六〇〇人という。しかし長引く避難により、食糧が不足して高浜村へ救援を求めてきた。
高浜村庄屋上田宜珍は、崎津村難渋百姓救援物資として、同村から米五俵、籾一五俵、味噌二挺、塩七俵、薪六〇〇〇斤、小屋掛け用の藁十束、苫一〇〇枚を船で送ったことを富岡役所に報告した。しかしこれだけは当然不足だったため、富岡付き山方役江間久兵衛が、米百俵を斡旋して船三艘で送った。
二月三日には、富岡浦に崎津村からの疱瘡船一一隻が入ってきた。富岡役所の役人らもこれには大慌てで、追い立てにかかった。疱瘡船からは、餓死寸前なので食糧さえ世話してくれたらすぐに出ていくからとの嘆願があり、哀れんだ町役人らは、大江組保証で一人一日四合ずつ、百人前三十日分二五味噌、塩などを富岡町から貸し与え。町内有志からも米二〇俵を集めて与え、沖へ追い払うようにして、富岡町への疱瘡の侵入を防いだ。翌々二月五日には、野母半島に避難していた崎津村の疱瘡船七艘が、食糧米を貸してほしいとやってきたので、同様の手続きをして追いやった。他国養生の疱瘡船は、やはり各所から迷惑がられて、厄介払いの対象だった。
  


新刊紹介『一滴』24号

2017年04月16日

 洋学 at 22:10  | Comments(0) | 科学史 | 洋学 | 文化史 | 地域史 | 蘭学
◆津山洋学資料館の研究誌『一滴』24号が届いた。4月23日(日)に瀬能宏地球博物館学芸部長による「箕作の名をもらった魚たち」の講演会案内も同封されていた。ミツクリザメなど箕作佳吉の調査により、ミツクリの名をもらった魚類は14もあるようです。関心のお持ちの方は津山洋学資料館まで。◆『一滴』の内容は、幸田正孝「『菩多尼訶経』の危うさ」、臺由子「箕作阮甫による蘭語の博物館関連用語の和訳について」、野村正雄「ナポレオン伝と箕作院甫ベルアリアンセ/スコーンフルボンド戦記を中心に」、吉田忠「柴田収蔵の集書活動ー『柴田収蔵日記』に出る蘭学関係書-」のほか、企画展紹介として、「久原洪哉生誕190周年記念 津山藩医久原家の幕末・明治」、「明治天皇の侍医頭 岡玄卿」、「解剖図の世界一江戸から現代へ」、「津山藩の絵師鍬形家と洋学者」、翻刻として土井康弘「『錦窠先生通信録』坤、補にある伊藤圭介の川口嵩宛書簡の翻刻」などを掲載。
◆吉田忠氏による柴田収蔵(伊東玄朴門人)の江戸での収集活動の論考に関心を持った。吉田氏は、詳細に柴田収蔵の集書活動を日記から読み解き、下以の結論を導いた。
◆「以上収蔵の集書活動を見てきた。医師にをる以前の佐渡時代には、当然のことながら医書には見るべきものはない。ただ蘭学の一般書『蘭学階梯』、『蘭学侃鯖』、『紅毛雑話』、『万国新語』を入手していたことは、収蔵が早くから蘭学に関心をもっていたことを示している。郷里で開業した弘化3年から嘉永元年の時期は、両津の藤沢明卿や小木の小野長庵など地元医師との交流を通じ、蘭学関係の医書を貸借し、写し、読み、学習している。嘉永3年の3度目の江戸遊学では、伊東玄朴塾でチットマン外科書の講読、文典の句読を受け、会読に参加してオランダ語の修得につとめた。そのせいか、開業医時代に比べ、書物の謄写の時間が少ない。安政3年の『日記』になると、既に蛮書調所出役が内定しているせいか、医学よりも地理を初めとする分野の書へと関心が移っているように見受けられる。また開国以後という時代を反映し、英語関連の文献、西学漢籍、新聞などが『日記』に登場する。その後の収蔵の活動を記す『日記』はない。しかし現存する6種の『日記』からだけでも彼の集書活動を充分に追跡でき、佐渡における活発な書物のやりとり、玄朴塾における書物をめぐる動向など豊富訓育報が得られる」という。  


『佐賀医人伝』校了

2017年02月17日

 洋学 at 06:09  | Comments(1) | 科学史 | 漢方医学 | 洋学 | 文化史 | 地域史 | 日本史 | 蘭学 | 種痘

三年越しの『佐賀医人伝』、ようやく今朝、最終原稿犬尾文郁とあとがき原稿を提出しました。今から10年前の某月某日、4人で磯寿司で医学史研究会を作ろうと旗揚げしてから、平成18年(2007)12月22日に佐賀医学史研究会が発会しました。平成20年(2009)6月には、佐賀市で第一一〇回日本医史学会総会を開催し、その際に、『佐賀医史跡マップ』を刊行し、県内の医史跡と医人を紹介しました。それから、毎年、本会は、例会と県内外の医史跡巡りを通じて、医人調査も続けてきました。その積み重ねのうえに、『佐賀医人伝』刊行の構想が生まれました。
 本書は、30人近くの執筆者の共同研究の成果で、127人(関連人物をいれると200人近くなります。そのうち青木執筆分はなんと72人でした)の略伝集です。皆それぞれ、できるかぎり子孫の方や史料所蔵者に連絡をとり原史料から読み解き、また、佐賀だけでなく京都や東京、長崎などの各地のお墓にお参りして、生没年月日を正確に把握するなど、汗を流して足で稼いで執筆しました。
 本書から、佐賀地域の大陸に近い地理的特性から、古代から進んだ大陸文化を取り入れ、地域の生活に役立ててきた姿が医学の面からもうかがえます。古くは伝説的な徐福をはじめ、佐賀藩初代藩主鍋島勝茂に仕えた朝鮮出身医師林栄久や、蓮池藩に仕えた鄭竹塢などが、大陸・朝鮮の先進的医術や文化を佐賀地域に伝えてきました。
 江戸時代にいってもは黄檗宗や中国の出版文化などが、佐賀地域に入り、全国に広がった例も多くみられます。また、長崎警備を担当した佐賀藩は、大陸文化だけでなく、オランダ通詞楢林鎮山やその子孫の楢林栄哲らを通じて、横尾元丈、上村春庵、佐野孺仙らが西洋医学を取り入れ、島本良順(龍嘯)が蘭学を発展させました。 
 江戸時代に最も恐れられていた感染症である天然痘予防の牛痘法の導入は、佐賀藩医の伊東玄朴、牧春堂、大石良英、楢林宗建、島田南嶺らの連携と藩主鍋島直正の後押しによって成功し、佐賀・長崎から全国へ普及することになりました。
 佐賀藩の試験による医師開業免許制度は、現代につながる医師国家試験制度の先駆であり、安政5年(1858)には、江戸時代におけるわが国最大の西洋医学校好生館が開設され、そこで育った相良知安や永松東海らが中心になって、ドイツ医学の導入や医制など、わが国の近代医学・薬学制度の基礎を築きました。
 また本書には、現代の東京女子医大のもとをつくった吉岡弥生(夫の吉岡荒太が佐賀県出身)、佐賀県最初の試験合格女医緖方トキ、太良町に図書館をつくった大橋リュフなどの女医も登場します。
 グローバル化が叫ばれる現代だからこそ、先人たちが、佐賀の地域特性に合わせて、海外の先進文化を取り入れて、地域の発展と医療の向上のために尽くした姿に学び、さらに、地域の個性を磨くことが必要なのではないでしょうか。
 本書を、先人たちからの贈り物として、皆様の座右に置いていただけると幸いです。
 なお、本書は、佐賀新聞社発行(ISBN978-4-88298-219-7、2017年2月25日発行)で一般書店でも1500円プラス税で購入いただけることになりました。  


鐘ヶ江晴朝

2016年12月23日

 洋学 at 13:36  | Comments(0) | 科学史 | 洋学 | 文化史 | 地域史 | 蘭学
青山霊園と佐賀藩4 鐘ヶ江晴朝
◆青山霊園へでかけたのは、鐘ヶ江晴朝のお墓を見たかったこともある。鐘ヶ江晴朝といっても知らない人がほとんどだろう。じつは、日本で最初に海水浴場を開いた佐賀出身の医師なのである。鐘ヶ江晴朝についての研究は、末岡暁美さんが長年研究されていて、そのブログ、たとえばhttp://sueoka-saga.jp/hagakure/76harutomo.htmlなどに、蘭方医と海水浴、あるいは鐘ヶ江晴朝について詳しい話が載っているので、ご覧いただきたい。
◆従来、我が国最初の海水浴場は、明治18年(1885)に軍医統監松本順(良順)が大磯を海水浴の適地として紹介したので、ここが最初の海水浴場とされてきて、いまなお、大磯海岸には、日本の海水浴場発祥の地の碑や、松本順先生謝恩の碑まで建っている。
◆じつは、早さでいえば、倉敷市の沙美海水浴場が、明治13年(1880)に海水浴場を開いている。坂田待園(1835 - 1890)という医師が、健康向上の手段として海水浴に注目し、それを受けて当時の村長(吉田親之)が海水浴場を開いた。これが大磯海岸より早い。
◆いやいや、もっと早い時期に海水浴場をつくったのが佐賀藩出身医師鐘ヶ江晴朝だった。 東京都公文書館の文書に、鐘ヶ江晴朝が申請した明治10年12月19日付「芝浦海水浴」開設のための「地所拝借願」があり、翌明治11年9月15日に、芝浦海水浴場が開場している。晴朝は、その後もリウマチ治療などに海水浴を利用したり、この運営にもあたっていた。
◆というわけで、鐘ヶ江晴朝のお墓を探していたのだが、今回は時間がなくて見つけられなかったので、また次回行ったときに探してみたい。鐘ヶ江晴朝については、『佐賀医人伝』にも末岡さんが研究成果を発表してくれるので、お楽しみに。
◆写真は大磯海岸にある日本最初の海水浴場の碑、次が大磯海岸にある松本順謝恩碑、岡山の海水浴場を提案した医師坂田待園。佐賀の『医業免札姓名簿』にみる鐘ヶ江晴朝。  


ボードインと佐賀

2016年12月16日

 洋学 at 12:43  | Comments(0) | 科学史 | 漢方医学 | 洋学 | 文化史 | 地域史 | 日本史 | 蘭学 | 外科学 | 種痘
ボードインと佐賀藩
◆ボードインが文久2年(1862)にポンペに代わって来日し、医学伝習を開始した。佐賀藩医相良弘庵(知安)は、文久3年(1863)から養生所でボードインに師事し、やがて戸塚文海のあとの精得館頭取となり、佐賀藩からの学生である島田東洋、永松東海(玄洋の子)、江口梅亭などを指導した。
◆直正の侍医大石良英が文久2年以前になくなり、侍医は漢蘭折衷医の松隈元南に代わった。直正は、文久3年の5月21日、22日、23日と、ボードインの診察を、長崎の五島町にあった佐賀藩深堀鍋島家屋敷でうけた。ボードインは、薬に頼るよりも、まず滋養のあるものを取ること、なるべく肉食がよいと勧めたが、牛や羊の肉は匂いが嫌だと直正がいうので、野鳥の肉やスッポンなどをすすめた。
◆ボードインは、帰国に伴う留学生人事などの幕府との交渉のため、慶応2年(1866)7月から8月にかけて江戸にでて、9月に長崎に帰着した。直正は、京都での諸侯会議へ参加する前に持病を軽減すべく、ボードインへの再診察を求めたので、慶応2年10月5日に伊万里で直正を診察し、摂生の仕方や栄養物の選択について説明した。このとき、直正はボードインを侍医にできないかと本気で考えており、ボードインもその気がないわけではなかった。 
◆ボードインの慶応2年(1866)末から翌年にかけてジャワと往復したようだが、慶応3年6月以降には、留学生緖方惟準をともなってオランダに帰国している。そして、幕府に海軍病院や医学校を設立意志があることを知り、さまざまな最新医療器具を携えて、慶応4年1月に再来日したときには、幕府は大政奉還と戊辰戦争で崩壊していた。
新政府は、ハラタマに大阪舎密局の開設を命じ、ボードインは明治2年(1869)に、大阪府仮病院に勤務し、明治3年11月にはその西隣に大阪医学校(現大阪大学中之島センターの位置)が開設され、その教師として勤務した。
◆ボードインは明治3年6月に帰国準備を始め、しばらく横浜に滞在した。新政府の医学校取調御用掛に就任した相良知安が、帰国前のボードインへ大学東校での短期間の講義を依頼し、明治3年7月から10月にかけてボードインは大学東校で講義をした。知安は、上野への医学校創設についても相談した。ボードインは上野の森の自然を壊さないように進言したため、医学校は上野の森をさけて旧加賀藩前田家屋敷地に建てられ、現在の東京大学本郷キャンパスにつながることになった。ボードインは、直正を佐賀藩江戸屋敷で明治3年9月17日から9月30日、10月5日、7日、9日、16日、20日、26日、11月10日、16日と帰国直前まで何度も診察して、同年11月末に離日した。
◆上野の森の自然を守ったボードイン(胸像名はボードワン博士像)の胸像が上野公園に建っている。なお、昭和48年(1973)に建立された最初の像は、弟のアルベルト・ボードインであったことが判明したため、平成18年(2006)に彫刻家林昭三氏の原型製作による正しいボードイン像が据  


緖方塾と佐賀

2016年12月05日

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◆緖方塾と佐賀は大変深い関係があります。佐賀の蘭学の祖と言われる島本良順(龍嘯)は、文政10年(1827)の暮れに大坂に蘭学修業に出ます。良順はすでに長崎でオランダ通詞の猪俣伝次右衛門にオランダ語を学んでおり、医師としても佐賀城下で西洋医としての看板を掲げており、伊東玄朴(1800~1871)や大庭雪斎(1806~1873)に蘭学の手ほどきをしていたのですが、さらに勉強を深めるために大坂に出ました。大坂で開業しつつ、蘭学修業を続けているうちに、良順の評判はどんどんあがり、2年後の文政12年の歌舞伎俳優に見立てた大坂の医者番付をみると、上の段の一番左に橋本曹(宗)吉、ついで島本良順、その右に中天游が記されています。良順の評価は精緻とあり、すでに橋本宗吉、中天游と並ぶほどの実力と評価があったのです。◆島本良順は文政年間の末に、佐賀へ帰って蘭学塾を開きます。その良順を招いたのが、佐賀藩儒者古賀穀堂でした。幕府昌平黌の教師となった佐賀藩出身儒者古賀精里の長男です。古賀穀堂は儒者でありながら蘭学は世界一統の学問として、蘭学学習と医学校の設立の必要性を、藩主らに説き、やがて若い藩主鍋島直正の時代になって、天保5年(1834)に医学寮が設立され、良順が寮監として西洋医学の講義を開始します。◆良順に蘭学の手ほどきをうけた大庭雪斎は、良順が佐賀へ戻るのと前後して、大坂にでて中天游の塾に、緖方洪庵(1810~63)とともに学びました。雪斎は洪庵より4歳年上の兄弟子でした。雪斎刪定の志筑忠雄『暦象新書』の序に、「先師天游中先生ニ従ヒ、緒方洪庵ト同窓シテ、共ニ此書ノ説ヲ受ケ、自ラ謄写シテ家ニ帰レリ」とあり、雪斎は、中天游の蘭学塾で洪庵とともに蘭書を学び、志筑忠雄の『暦象新書』も見ることができました。そのあと、いったん郷里に帰ります。緖方洪庵が中天游に学ぶのが文政9年(1826)から天保元年(1830)なので、雪斎の緖方洪庵との同窓時期はそのころとみられます。◆洪庵は天保元年(1830)から江戸に出て、苦学のすえ、翌年から坪井信道に学びます。中天游が天保6年(1835)に亡くなったため、いったん江戸から大坂に戻り、中天游塾を守り、天保7年から9年まで長崎で修業後、大坂瓦町で蘭学塾適々斎塾を開きます。この年、29歳の洪庵は、中天游門人の一人億川百記の娘八重(17歳)と結婚します。◆大庭雪斎は、弘化2年(1845)から同4年の間、再び大坂にでて、医者を開業しつつ本格的に洪庵の適塾に通いました。当時の雪斎の居所は、『医家名鑑』(弘化2年刊)に「内科今橋二丁目大庭雪斎」とあり、過書町の適塾から数百㍍の場所で、開業しながら、適塾にある原書ガランマチカなどを読み解いたのです。その成果は雪斎訳のオランダ文法書『訳和蘭文語』となります(刊行は安政3,4年)。緒方洪庵は『訳和蘭文語』後編の題言に、「西肥雪斎大庭氏予(洪庵)同窓之友也、幾強仕憤然起志、始読西藉不耻下向不遠千里来游于予門、焦思苦心、衷褐未換而其学大成矣」とかいてあり、洪庵と同門であること、雪斎は西洋の書籍をはじめて読むことを恥じずに、千里の道を遠しとせずに大坂で洪庵門に入り苦労して大成したと書いてあります。雪斎と洪庵のきずなの深さがわかります。◆ですから、洪庵塾で研鑽を積み、実力をつけた雪斎は、洪庵が義弟緒方郁蔵の助けをかりて数十年かけて刊行した名著『扶氏経験遺訓』の毎巻本文には、「足守 緒方章公裁、義弟郁子文 同訳、大庭忞景徳 参校」と校正役として毎巻の最初に記載されるまでになったのでした。
◆雪斎は、嘉永4年(1851)、佐賀藩が西洋科学技術を導入するにあたり、その研究機関である蘭学寮の初代教導となり、安政元年(1854)に弘道館教導となり、安政5年(1858)に好生館ができるとその教導方頭取となり、医学生延べ650人にもなる幕末期における我が国最大の西洋医学校である好生館の校長として、西洋医学教育を推進したのでした。◆一方、適塾で門下生を指導していた緖方洪庵は、江戸に呼ばれます。呼んだのは、古賀穀堂の弟の古賀謹一郎と、佐賀藩医で奧医師の伊東玄朴でした。古賀謹一郎は、プチャーチンが来航した嘉永6年(1853)に交渉役の川路聖謨に随行し、長崎までやってきて反射炉もみて帰ります。謹一郎は、西洋研究の重要性を老中らに説き、やがて洋学所焼失後の洋学研究機関である蕃書調所の設置にこぎつけ、謹一郎が校長として、箕作阮甫と杉田成卿を教授として、全国から優秀な蘭学者を集めます。安政3年(1856)に最先端の洋学研究所が作られました。安政5年(1858)に伊東玄朴らが江戸お玉が池種痘所を開設したのは、川路の屋敷でした。玄朴らは、ここを拠点に西洋医学を発展させるために、万延元年(1860)には、幕府直轄の種痘所にし、文久元年(1861)に西洋医学所に発展させたのでした。しかし文久2年にこの頭取の大槻俊斎が亡くなったので、玄朴らは緖方洪庵を次の頭取にと招いたのでした。最初は断っていた洪庵でしたが、西洋医学推進のため、江戸に下ります。しかし、まだほとんどなにもできていないなかでの苦労が重なり、文久3年(1863)の6月、突然の大喀血で洪庵は亡くなります。54歳でした。この洪庵の追悼の墓碑銘を書いたのが古賀謹一郎でした。幕末の西洋医学、西洋学術推進に、