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洋学

柴澤コレクション展

2020年11月16日

 洋学 at 12:07  | Comments(0) | 文化史 | 文化交流史 | 地域史
◆今朝(11月16日)の佐賀新聞の論説、古賀史生さんが、九州陶磁文化館で開催中の柴澤コレクション展について書いていた。
◆古賀さんは、とくに「佐渡で見つかった砂目積みの跡が残る「染付花唐草文小皿」(1610~30年代)は、有田焼きの原点とも呼べる貴重な品だ。焼け焦げた砂の跡が皿の中央と高台に残っているが、これは「砂目」と呼ばれ、砂混じりの泥団子を挟み込んで焼いた跡だ。」と注目し、「この小皿は、有田焼きの先進性を象徴する品と言えるだろう」と述べている。写真がそれである。
◆どういうことか、当時、中国からの輸入が途絶えたとき、そのぽっかり空いた市場を埋めたのが有田焼で、白磁にブルーの染め付けを施しているのは、当時、中国で珍重されていた中国のデザインに似せたからで、ほかにも中国の年号「成化」を銘に記した皿もいくつもある。
◆ということは、人気のデザインを柔軟、かつ大胆に取り入れる姿勢は、現代の有田にも共通している。現在、人気のデザイナーを呼んでのコラボも行われている。つまりコストの品質の両立を目指した姿勢は、現代も変わらない姿勢とする。
◆もう一つのキーワードは北前船である。北前船によって有田焼は日本海沿岸に大量に運ばれた。まさに流通革命である。現代のICT(情報通信)革命にもにた変化という。
◆新型コロナウイルスによって、今年の有田陶器市は中止を余儀なくされた。代わりに目を付けたのが「web陶器市」だった。一週間で2億4500万円を売り上げたという。
◆まさにピンチはチャンスである。在宅勤務が増えたとき、ネット販売が好調であり、その市場は国内だけでなく世界に開かれている。
◆有田陶器がデザインの先進性と品質を保ちつつ、市場、国内市場だけでなく、とくに国際市場への広がりが、今後の有田の未来を切り開いていくと思う。中国の輸入が絶えたとき、世界市場へ有田焼が古伊万里として輸出された。まさにその時代が改めてやってくることを予感するのである。
◆1100点もの柴澤コレクションを一堂に見られるのはこれが最初で最後であろう。古賀さんは「コロナ危機をどう乗り越えるか、その勇気と知恵をくれるコレクションである」と結んでいる。まったく同感である。12月13日まで。  


丸亀の種痘医 河田雄禎

2018年11月10日

 洋学 at 00:09  | Comments(0) | 科学史 | 漢方医学 | 洋学 | 文化史 | 地域史 | 日本史 | 蘭学
◆今日は丸亀の種痘医河田雄禎墓碑調査。丸亀駅についてレンタカーで浄土宗寿覚院へ。墓地内を探索させていただくと、見付かった。墓には雄禎でなく河田宅治とある。
◆碑文を読むと緒方洪庵門人で、洪庵から牛痘を分けてもらって、嘉永3年2月に讃岐で最初の種痘をした人物であることなどが書いてあった。
◆墓碑が新しくなっていたので、もしかして御子孫が健在なのだろうかと思い、御子孫の河田さんの住所を住職さんをお尋ねしたら、連絡をとってみますとのこと。連絡がきたら、また丸亀に調査にこなくては。それはそれで新しい資料が見付かる可能性があるので楽しみではある。
◆ちょっと古い『香川の郷土の人物』の図書記事によれば、河田雄禎宅治の旧医院は、吉田病院の近くにあるという。その記事をたよりに、初めて丸亀市内を歩いてみた。しかし、吉田病院は大きな病院ですぐわかったが、どうにも河田医院の痕跡がない。近くの古い御菓子屋さんに入って聞いたら。図書の記事の吉田病院は吉田病院のケアハウスになっていて、現在建っている大きな吉田病院のところが旧河田医院だったという。
◆というわけで旧河田医院跡を確認したあとは、一路、徳島へ。明日午前中に徳島で関関斎と井上不鳴という医師の調査をしてから高知へ向かう予定。関寛斎は知る人ぞ知る有名人だが、井上不鳴は不鳴だけにほとんど不明。  


天草の疱瘡流行と隔離山小屋

2018年01月07日

 洋学 at 20:40  | Comments(0) | 科学史 | 漢方医学 | 洋学 | 文化史 | 地域史 | 日本史 | 種痘
天草の疱瘡流行
天草地方でも天然痘の流行は頻繁に繰り返された。『天草近代年譜』によると、寛政六年(一七九四)に志岐村が一村あげて疱瘡に罹り、享和元年(一八〇一)には、崎津村に疱瘡が大流行し、罹病者は五〇〇人余りに及び、近村や郡中からも助勢がきて、島原表からも医師が来て救護にあたったので、流行当初は、患者の七割ほどが死亡したが、段々緩和されるようになった。
文化六年(一八〇九)八月には、志岐村で疱瘡が大流行した。小野田代官、町年寄、町庄屋等が、同村へ出張詰切り防疫に努めたが、九月に入り、益々猖獗を極めたため、同村の大庄屋平井為五郎は、隣村の坂瀬川村へ立ち退くことになった。一〇月になっても、志岐村の疱瘡流行は止まず、大庄屋たちは年貢の納期であるので、会所詰めの者は手落ちがあってはいけないので、この際、大庄屋や庄屋など年貢納入に関わる者は、すべて疱瘡相済み候者を宛ててほしいという要求を役所に出したほどだった。文化七年(一八一〇)二月になって志岐村、三月には富岡町の疱瘡流行がようやく終熄した。
文政三年(一八二〇)三月には、痘病(天然痘)がまた流行し始め、志岐村・内田村一帯に蔓延した。天保五年(一八三四)崎津村で疱瘡が大流行し、村中が極難に陥った。天保一三年(一八四二)には富岡町と志岐村に疱瘡が発生し、次第に蔓延しはじめた。二月には大流行となり、同所は出入り止めとなり、罹病者は一〇〇〇人余、死者は五〇余人にも上った。
疱瘡対策としての山小屋
このように天草地方では、疱瘡の流行が繰り返された。その対策の一つとして山小屋に隔離するならわしが生まれた。天草地方の疱瘡山小屋については、東昇『近世の村と地域情報』(二〇一六)に詳しい。
東昇氏によれば、山小屋の規定は、宝永六年(一七〇九)一〇月、「疱瘡人入申小屋并看病人仕様御請申上候覚」(上田家文書)という郡内の大庄屋から富岡役所に、郡中村々にいる疱瘡患者に対し、山小屋を建て、そこに隔離する願書が出されたのが初見という。
そこには、田畑に影響のない場所に、一人あたり二間四方の場所を確保し、一村で一五人から二〇人までの患者を隔離収容して、養生させること、それ以上の流行は、自家で看病するが、看病人以外の者は村外れに除くこととすること、たとい一村で五人、三人相患い候ものが出れば山小屋に入れるが、患者一人につき看病人二人宛つけ、近所の医師を派遣し療養させることなどを取り決めている。費用はまず村で負担し、まかない切れないときは、郡役所に相談することと決められた。
以後、疱瘡患者がでると、山小屋への隔離は常態化し、安永二年(一七七三)三月には、本戸馬場村の九人が、山小屋送りとなっている。
文化四年の高浜村での流行
文化四年一一月二八日に病死した漁師慶助の葬式に参列した二〇人が疱瘡に感染し、つぎつぎと高浜村内に蔓延した。一二月一四日に八軒、一五日に一二軒、四〇人余りが山入りをした。
高浜村を中心に活動していた宮田医師が山小屋に派遣され、治療にあたった。山小屋に入った宮田医師は一二月一八日に二通の書状を高浜村庄屋上田宜珍に送った。つぎつぎと山小屋に送られてくる疱瘡患者を、重病と軽症にわけ、薬用についても詳細に記録するとともに、一二月の寒さよけのため、酒や古衣類などを送ってほしい、肴も足りないなど、難儀していることを報告している。もう一通では二一人が死去したこと、そのうち薬を使用しなかったのが九人、あとの一二人は薬を使用したが亡くなったこと、雨が降ると薬をとりに行けないので、笠一本と下駄を持ってきてほしいとある。庄屋上田宜珍は、早速、肴や糧米、薬種を山へ送っている。
最初の発生から約一ヶ月後、宜珍は、一二月二五日付けで、病人八〇人、死者一六人(ママ)、看病人一二〇人、除小屋一〇一人と富岡役所へ報告した。除小屋というのは、患者の家族が避難するための小屋で、村はずれに建てられた。
翌文化五年正月、宜珍は、富岡役所の小川仁兵衛ほかへ年頭挨拶がてら病人の様子などを報告した。村内外から銭、米、麦、味噌、塩など救援物資がつぎつぎと宜珍のもとに送られてきた。宜珍は、それらを「諏訪疱瘡一件救方届書」として作成し、疱瘡が終熄したとみて富岡役所へ提出した。
ところが終息したかにみえた疱瘡が、二月一七日から再発して、再び山行きが始まった。三月七日までに病人一五人が山へ送られ、内一二人が死亡した。その後しばらく再発が無かったので、三月一〇日に宮田医師宅に、村役人らが御礼に伺い、その後、謝礼として銭一貫五〇〇目、米三俵、樽一を渡している。
三月二四日には、一二月一四日から山入りしていた者たちの帰村を許可したため、以後、ぞくぞくと帰村が始まり、ようやく終息したと安堵の気持ちが村に広がった。
四月一〇日には、看病費の額について村からの支出が提案された。男の看病費は大江村の八〇日=三五〇目を基準として、今回は一〇〇日と長期だったので、五〇目増の四〇〇目、女の看病費は三〇〇目とされた。山へ輸送などを行った山賃銭については、男の場合、初山三〇〇目、二番二〇〇目など計七五〇目とし、女子の山賃銭は計五八〇目としている。
なお北野典夫氏によれば、山小屋と麓の村との連絡は、旗を振って行ったことが多く、赤い旗が振られたら食糧が不足している合図で、それをみた麓の村では疱瘡わずらい済みの者が米俵やカライモを背負って山小屋に届けることにしていた。白い旗が振られたら、死者がでた合図、麓の村では、みんな山小屋に向かって合掌したと伝えられる(『大和心を人問わば』一九八九)。
他国養生の悲惨
高浜村では、終熄したかにみえた疱瘡が、またまた、四月四日から四月二五日にかけて、再度一七人の疱瘡病人が散発的に発生した。四月四日に見出された諏訪久平の娘は、今度山入りをしたらまたまた疱瘡が跡をひくかもしれないから。山入りでなく他国へ養生することになり、村から往来手形と銭七〇〇目が支給され、他国養生に向かわされた。以後の発生患者も他国養生となり、五月一三日の記録では、他国養生分として、合計で丁銭一〇四貫五〇〇文が村中から支給されたことがわかる。
他国養生の行方はどうなったか。五月一九日の役所への報告書には、未だ罷り帰り申さず候、それ以後村方に一人も病人が発生しないので、流行は終息したと判断された。他国養生の多くは、そのまま村外追放のかたちで、他国で息絶えたのだろう。ただ、この時に他国養生した元吉倅が、実際に治癒して帰宅した事例も一例知られている。全快すれば、帰村が許されてはいた。
文化一〇年(一八一三)正月末に、一五〇〇人ほどの大江組の崎津村で疱瘡が大流行して、港の対岸に約二〇〇人が小屋掛けして避難し、村境の梅木山へ逃げた者三〇〇人ほど、船に乗り込んで海に逃げ込んだ者五、六〇〇人という。しかし長引く避難により、食糧が不足して高浜村へ救援を求めてきた。
高浜村庄屋上田宜珍は、崎津村難渋百姓救援物資として、同村から米五俵、籾一五俵、味噌二挺、塩七俵、薪六〇〇〇斤、小屋掛け用の藁十束、苫一〇〇枚を船で送ったことを富岡役所に報告した。しかしこれだけは当然不足だったため、富岡付き山方役江間久兵衛が、米百俵を斡旋して船三艘で送った。
二月三日には、富岡浦に崎津村からの疱瘡船一一隻が入ってきた。富岡役所の役人らもこれには大慌てで、追い立てにかかった。疱瘡船からは、餓死寸前なので食糧さえ世話してくれたらすぐに出ていくからとの嘆願があり、哀れんだ町役人らは、大江組保証で一人一日四合ずつ、百人前三十日分二五味噌、塩などを富岡町から貸し与え。町内有志からも米二〇俵を集めて与え、沖へ追い払うようにして、富岡町への疱瘡の侵入を防いだ。翌々二月五日には、野母半島に避難していた崎津村の疱瘡船七艘が、食糧米を貸してほしいとやってきたので、同様の手続きをして追いやった。他国養生の疱瘡船は、やはり各所から迷惑がられて、厄介払いの対象だった。
  


新刊紹介『一滴』24号

2017年04月16日

 洋学 at 22:10  | Comments(0) | 科学史 | 洋学 | 文化史 | 地域史 | 蘭学
◆津山洋学資料館の研究誌『一滴』24号が届いた。4月23日(日)に瀬能宏地球博物館学芸部長による「箕作の名をもらった魚たち」の講演会案内も同封されていた。ミツクリザメなど箕作佳吉の調査により、ミツクリの名をもらった魚類は14もあるようです。関心のお持ちの方は津山洋学資料館まで。◆『一滴』の内容は、幸田正孝「『菩多尼訶経』の危うさ」、臺由子「箕作阮甫による蘭語の博物館関連用語の和訳について」、野村正雄「ナポレオン伝と箕作院甫ベルアリアンセ/スコーンフルボンド戦記を中心に」、吉田忠「柴田収蔵の集書活動ー『柴田収蔵日記』に出る蘭学関係書-」のほか、企画展紹介として、「久原洪哉生誕190周年記念 津山藩医久原家の幕末・明治」、「明治天皇の侍医頭 岡玄卿」、「解剖図の世界一江戸から現代へ」、「津山藩の絵師鍬形家と洋学者」、翻刻として土井康弘「『錦窠先生通信録』坤、補にある伊藤圭介の川口嵩宛書簡の翻刻」などを掲載。
◆吉田忠氏による柴田収蔵(伊東玄朴門人)の江戸での収集活動の論考に関心を持った。吉田氏は、詳細に柴田収蔵の集書活動を日記から読み解き、下以の結論を導いた。
◆「以上収蔵の集書活動を見てきた。医師にをる以前の佐渡時代には、当然のことながら医書には見るべきものはない。ただ蘭学の一般書『蘭学階梯』、『蘭学侃鯖』、『紅毛雑話』、『万国新語』を入手していたことは、収蔵が早くから蘭学に関心をもっていたことを示している。郷里で開業した弘化3年から嘉永元年の時期は、両津の藤沢明卿や小木の小野長庵など地元医師との交流を通じ、蘭学関係の医書を貸借し、写し、読み、学習している。嘉永3年の3度目の江戸遊学では、伊東玄朴塾でチットマン外科書の講読、文典の句読を受け、会読に参加してオランダ語の修得につとめた。そのせいか、開業医時代に比べ、書物の謄写の時間が少ない。安政3年の『日記』になると、既に蛮書調所出役が内定しているせいか、医学よりも地理を初めとする分野の書へと関心が移っているように見受けられる。また開国以後という時代を反映し、英語関連の文献、西学漢籍、新聞などが『日記』に登場する。その後の収蔵の活動を記す『日記』はない。しかし現存する6種の『日記』からだけでも彼の集書活動を充分に追跡でき、佐渡における活発な書物のやりとり、玄朴塾における書物をめぐる動向など豊富訓育報が得られる」という。  


なぜ皆川淇園には医者の門人が多かったか

2017年03月18日

 洋学 at 05:29  | Comments(0) | 漢方医学 | 文化史 | 地域史 | 日本史
◆昨日、facebookに、京都の儒者皆川淇園の門人になぜ医者が多いのか、それは現代におけるカルテの書き方を教えていたからだ、と記したら、廣川和花さんからそれは重要な要素です、詳しく教えてくださいというコメントがあったので、ちょっと専門的になりますが、良い論文を紹介します。◆それは、私の科研費報告書『西南諸藩医学教育の研究』(正式名は、平成24~26年度科学研究費補助金「佐賀藩・中津藩・長州藩を軸とする西南諸藩の医学教育の研究」2015.3、A5版、352頁、非売品)に掲載された、三木恵里子「医学初学者の遊学環境」(同書、135~143頁)に載っている論文です。◆この報告書は352頁もの大部な報告書ですが、市販化されていませんのと残部がほとんどないので、一般には入手困難です。いつか本の形で市販化して紹介したいよい報告書だと思うのですが、とりあえず、今回は、少し長いですが、三木論文の内容をできるだけ本文引用のかたちで、紹介します。◆三木さんは、「近世の学習形態の一つに、地方から三都・長崎などへの遊学がある。家庭や地元での学びを経て、最終的に文化の中心地で学問を修める、ということが一種の学歴となっていた。医学を修める者も、多く遊学をした。たとえば、伊勢松坂の商家の生まれだった本居宣長は、医者になろうと京都に遊学した。堀景山のもとで漢籍を学んだのちに、堀元厚に入門して医書を習った 。京都は宣長にとってあこがれの地であり、日記を見ると宣長は京都での生活を大いに享受したようだ。」と述べ、「『平安人物志』に載る学者に、皆川淇園という人物がいる。淇園の門人帖には、山脇東洋の子弟や小石元俊、賀川玄悦などの『平安人物志』に記載される医者とその紹介で入った門人の名前が多く見られる。医者が、門人に淇園を紹介し、儒学を学ばせたのはなぜか。どのような人が紹介されたのか。」という疑問から、研究をすすめ、山脇家門人と皆川淇園の共通の門人は少ないという従来の学説を否定し、むしろ山脇家子弟と関係者からの紹介が多いことを指摘して、その理由なると淇園の二つの著書を紹介しました。◆そのひとつが、『医案類語』十二巻、医学・薬学の用語を意味ごとに分類した辞典である。「集められた医学用語にわかりやすく和語で解説をつけている。たとえば腹痛の項であれば、「腹中絞絞トシテ迷悶極マリ無シ」「臍築湫シテ痛ム」など、腹痛の様子を表現する文例が12並ぶ。そして、「築湫」の左横には「オシツツムヨウニ」と漢語の意味が書かれており、「臍築湫シテ痛ム」とは「臍をおしつつむように痛む」という意味だとわかる。「傷寒」と割注があるので、『傷寒論』が出典であることもわかる。」「「補」「潤」「血」などの語も、書式と送り仮名・ふり仮名をつけた形の用例によって示されており、空白部分に字や語をあてはめれば漢文が完成するフォーマットが用意されている。医学を学ぶ者が、医書に出てくる難解な語や臨床で実際に使うであろう文を習得するのには最適な書であるといえよう。」とあり、医者が現代でいう医学用語の意味を、空欄穴埋め式のフォーマット的に紹介していたことがわかります。◆「ふたつめは、『習文録』である。」「淇園が塾で教えていた漢文作文教育を再現したものが、『習文録』である。『習文録』も『医案類語』と同じく初版が安永3年であるので、山脇家との共通門人が学んでいた内容だと言ってよい。」「『習文録』は淇園の塾で漢文作文習得のために行われていた「射復文」という方法をそのまま再現したものであった。淇園の門人である葛西欽は『習文録』題言に、「塾課ニ近コロマタ射復文ト云モノヲ作ス、其事甚タ文ヲ習フニ便ナルヲ以テ、諸生競テコレヲ為ス」と書いている。」と、三木さんは、『医案類語』で医学用語の意味を書式化して、医学生に学ばせ、『習文禄』で医学論文作成のための文章作成方法を教授していたと分析しています。◆だからこそ、皆川淇園の塾には、医者の子弟があつまり、門弟3000人(実際は『有斐斎受業門人帳』で確認できるのは1313人である)といわれた人気儒者になれたのでしょう。  


『佐賀医人伝』校了

2017年02月17日

 洋学 at 06:09  | Comments(1) | 科学史 | 漢方医学 | 洋学 | 文化史 | 地域史 | 日本史 | 蘭学 | 種痘

三年越しの『佐賀医人伝』、ようやく今朝、最終原稿犬尾文郁とあとがき原稿を提出しました。今から10年前の某月某日、4人で磯寿司で医学史研究会を作ろうと旗揚げしてから、平成18年(2007)12月22日に佐賀医学史研究会が発会しました。平成20年(2009)6月には、佐賀市で第一一〇回日本医史学会総会を開催し、その際に、『佐賀医史跡マップ』を刊行し、県内の医史跡と医人を紹介しました。それから、毎年、本会は、例会と県内外の医史跡巡りを通じて、医人調査も続けてきました。その積み重ねのうえに、『佐賀医人伝』刊行の構想が生まれました。
 本書は、30人近くの執筆者の共同研究の成果で、127人(関連人物をいれると200人近くなります。そのうち青木執筆分はなんと72人でした)の略伝集です。皆それぞれ、できるかぎり子孫の方や史料所蔵者に連絡をとり原史料から読み解き、また、佐賀だけでなく京都や東京、長崎などの各地のお墓にお参りして、生没年月日を正確に把握するなど、汗を流して足で稼いで執筆しました。
 本書から、佐賀地域の大陸に近い地理的特性から、古代から進んだ大陸文化を取り入れ、地域の生活に役立ててきた姿が医学の面からもうかがえます。古くは伝説的な徐福をはじめ、佐賀藩初代藩主鍋島勝茂に仕えた朝鮮出身医師林栄久や、蓮池藩に仕えた鄭竹塢などが、大陸・朝鮮の先進的医術や文化を佐賀地域に伝えてきました。
 江戸時代にいってもは黄檗宗や中国の出版文化などが、佐賀地域に入り、全国に広がった例も多くみられます。また、長崎警備を担当した佐賀藩は、大陸文化だけでなく、オランダ通詞楢林鎮山やその子孫の楢林栄哲らを通じて、横尾元丈、上村春庵、佐野孺仙らが西洋医学を取り入れ、島本良順(龍嘯)が蘭学を発展させました。 
 江戸時代に最も恐れられていた感染症である天然痘予防の牛痘法の導入は、佐賀藩医の伊東玄朴、牧春堂、大石良英、楢林宗建、島田南嶺らの連携と藩主鍋島直正の後押しによって成功し、佐賀・長崎から全国へ普及することになりました。
 佐賀藩の試験による医師開業免許制度は、現代につながる医師国家試験制度の先駆であり、安政5年(1858)には、江戸時代におけるわが国最大の西洋医学校好生館が開設され、そこで育った相良知安や永松東海らが中心になって、ドイツ医学の導入や医制など、わが国の近代医学・薬学制度の基礎を築きました。
 また本書には、現代の東京女子医大のもとをつくった吉岡弥生(夫の吉岡荒太が佐賀県出身)、佐賀県最初の試験合格女医緖方トキ、太良町に図書館をつくった大橋リュフなどの女医も登場します。
 グローバル化が叫ばれる現代だからこそ、先人たちが、佐賀の地域特性に合わせて、海外の先進文化を取り入れて、地域の発展と医療の向上のために尽くした姿に学び、さらに、地域の個性を磨くことが必要なのではないでしょうか。
 本書を、先人たちからの贈り物として、皆様の座右に置いていただけると幸いです。
 なお、本書は、佐賀新聞社発行(ISBN978-4-88298-219-7、2017年2月25日発行)で一般書店でも1500円プラス税で購入いただけることになりました。  


鐘ヶ江晴朝

2016年12月23日

 洋学 at 13:36  | Comments(0) | 科学史 | 洋学 | 文化史 | 地域史 | 蘭学
青山霊園と佐賀藩4 鐘ヶ江晴朝
◆青山霊園へでかけたのは、鐘ヶ江晴朝のお墓を見たかったこともある。鐘ヶ江晴朝といっても知らない人がほとんどだろう。じつは、日本で最初に海水浴場を開いた佐賀出身の医師なのである。鐘ヶ江晴朝についての研究は、末岡暁美さんが長年研究されていて、そのブログ、たとえばhttp://sueoka-saga.jp/hagakure/76harutomo.htmlなどに、蘭方医と海水浴、あるいは鐘ヶ江晴朝について詳しい話が載っているので、ご覧いただきたい。
◆従来、我が国最初の海水浴場は、明治18年(1885)に軍医統監松本順(良順)が大磯を海水浴の適地として紹介したので、ここが最初の海水浴場とされてきて、いまなお、大磯海岸には、日本の海水浴場発祥の地の碑や、松本順先生謝恩の碑まで建っている。
◆じつは、早さでいえば、倉敷市の沙美海水浴場が、明治13年(1880)に海水浴場を開いている。坂田待園(1835 - 1890)という医師が、健康向上の手段として海水浴に注目し、それを受けて当時の村長(吉田親之)が海水浴場を開いた。これが大磯海岸より早い。
◆いやいや、もっと早い時期に海水浴場をつくったのが佐賀藩出身医師鐘ヶ江晴朝だった。 東京都公文書館の文書に、鐘ヶ江晴朝が申請した明治10年12月19日付「芝浦海水浴」開設のための「地所拝借願」があり、翌明治11年9月15日に、芝浦海水浴場が開場している。晴朝は、その後もリウマチ治療などに海水浴を利用したり、この運営にもあたっていた。
◆というわけで、鐘ヶ江晴朝のお墓を探していたのだが、今回は時間がなくて見つけられなかったので、また次回行ったときに探してみたい。鐘ヶ江晴朝については、『佐賀医人伝』にも末岡さんが研究成果を発表してくれるので、お楽しみに。
◆写真は大磯海岸にある日本最初の海水浴場の碑、次が大磯海岸にある松本順謝恩碑、岡山の海水浴場を提案した医師坂田待園。佐賀の『医業免札姓名簿』にみる鐘ヶ江晴朝。  


青山霊園と佐賀藩2ー谷口藍田

2016年12月18日

 洋学 at 23:29  | Comments(0) | 文化史 | 地域史 | 日本史

◆青山霊園はとにかく広い。墓地番号を知らないとただただ歩きまわることになる。そのほうが、思いがけない出会いもたしかにある。佐野常民の墓(一種イ五号二六側・二七側一番)を探していると、一種イ自5号至6号に、谷口藍田の墓があった。墓碑銘の裏にまわると、「明治三十五年十一月十四日没、享年八十一歳」とある。そうか、享年をつけても歳を省略せずにちゃんとつけている。漢学者の墓碑であるので、こちらが正式なのかもしれない。
◆谷口藍田は、ウイキペディアによると、有田(佐賀県西松浦郡有田町)の医師三宅省庵の二男で、母が武雄の儒医清水龍門の姉で縫という。名は中秋、字は大明、別号に介石。幼名は秋之助。佐賀藩士谷口寛平の養子となったとあるが、じつはちょっと三宅省庵の二男説に違和感があったので、現在、編集中の『佐賀医人伝』のうち、三宅曹悦の項目を開いてみた。
◆『佐賀医人伝』の三宅曹悦の項目を執筆した多久島澄子さんの調査によると三宅省庵の長男が曹悦で、二男が陶渓で、陶渓の長男が谷口藍田で、一八歳で眼科医木下一普の娘益と結婚、眼科医を目指すが、継ぐことをきらって、全国を歴遊して儒学者・教育者として名を残したとあり、しっかりした調査に基づいての記述であるので、多久島さんの執筆が正しくて、ウイキペディアの三宅省庵の二男説は誤りであろう。
◆藍田は、幼児から神童とうたわれ、英彦山の玉蔵坊に儒学を学んだあと、広瀬淡窓の咸宜園に入って塾頭を務めた。天保14年(1843年)、江戸に出て羽倉簡堂に入門し、佐藤一斎、伊東玄朴、大槻磐渓らと交流し、嘉永元年(1848)に佐賀藩校の弘道館に入り、草場佩川らに学び、嘉永4年(1851)に私塾を開いた。明治2年(1869)、鹿島藩校弘文館の教授となった。その後、沖縄・熊本・大阪などの各地で儒書を講義し、明治29年(1896)、東京に私塾・藍田書院を開いた。明治35年(1902)11月14日、麹町相模屋で入浴後に脳溢血で倒れ、死去した。
◆藍田全集もでており、藍田の撰文になる墓碑なとも、清水龍門の娘婿立野元定、医師松本省吾碑などをはじめ多い。気になっていた人物であり、思いがけない出会いにびっくり。  


ボードインと佐賀

2016年12月16日

 洋学 at 12:43  | Comments(0) | 科学史 | 漢方医学 | 洋学 | 文化史 | 地域史 | 日本史 | 蘭学 | 外科学 | 種痘
ボードインと佐賀藩
◆ボードインが文久2年(1862)にポンペに代わって来日し、医学伝習を開始した。佐賀藩医相良弘庵(知安)は、文久3年(1863)から養生所でボードインに師事し、やがて戸塚文海のあとの精得館頭取となり、佐賀藩からの学生である島田東洋、永松東海(玄洋の子)、江口梅亭などを指導した。
◆直正の侍医大石良英が文久2年以前になくなり、侍医は漢蘭折衷医の松隈元南に代わった。直正は、文久3年の5月21日、22日、23日と、ボードインの診察を、長崎の五島町にあった佐賀藩深堀鍋島家屋敷でうけた。ボードインは、薬に頼るよりも、まず滋養のあるものを取ること、なるべく肉食がよいと勧めたが、牛や羊の肉は匂いが嫌だと直正がいうので、野鳥の肉やスッポンなどをすすめた。
◆ボードインは、帰国に伴う留学生人事などの幕府との交渉のため、慶応2年(1866)7月から8月にかけて江戸にでて、9月に長崎に帰着した。直正は、京都での諸侯会議へ参加する前に持病を軽減すべく、ボードインへの再診察を求めたので、慶応2年10月5日に伊万里で直正を診察し、摂生の仕方や栄養物の選択について説明した。このとき、直正はボードインを侍医にできないかと本気で考えており、ボードインもその気がないわけではなかった。 
◆ボードインの慶応2年(1866)末から翌年にかけてジャワと往復したようだが、慶応3年6月以降には、留学生緖方惟準をともなってオランダに帰国している。そして、幕府に海軍病院や医学校を設立意志があることを知り、さまざまな最新医療器具を携えて、慶応4年1月に再来日したときには、幕府は大政奉還と戊辰戦争で崩壊していた。
新政府は、ハラタマに大阪舎密局の開設を命じ、ボードインは明治2年(1869)に、大阪府仮病院に勤務し、明治3年11月にはその西隣に大阪医学校(現大阪大学中之島センターの位置)が開設され、その教師として勤務した。
◆ボードインは明治3年6月に帰国準備を始め、しばらく横浜に滞在した。新政府の医学校取調御用掛に就任した相良知安が、帰国前のボードインへ大学東校での短期間の講義を依頼し、明治3年7月から10月にかけてボードインは大学東校で講義をした。知安は、上野への医学校創設についても相談した。ボードインは上野の森の自然を壊さないように進言したため、医学校は上野の森をさけて旧加賀藩前田家屋敷地に建てられ、現在の東京大学本郷キャンパスにつながることになった。ボードインは、直正を佐賀藩江戸屋敷で明治3年9月17日から9月30日、10月5日、7日、9日、16日、20日、26日、11月10日、16日と帰国直前まで何度も診察して、同年11月末に離日した。
◆上野の森の自然を守ったボードイン(胸像名はボードワン博士像)の胸像が上野公園に建っている。なお、昭和48年(1973)に建立された最初の像は、弟のアルベルト・ボードインであったことが判明したため、平成18年(2006)に彫刻家林昭三氏の原型製作による正しいボードイン像が据  


緖方塾と佐賀

2016年12月05日

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◆緖方塾と佐賀は大変深い関係があります。佐賀の蘭学の祖と言われる島本良順(龍嘯)は、文政10年(1827)の暮れに大坂に蘭学修業に出ます。良順はすでに長崎でオランダ通詞の猪俣伝次右衛門にオランダ語を学んでおり、医師としても佐賀城下で西洋医としての看板を掲げており、伊東玄朴(1800~1871)や大庭雪斎(1806~1873)に蘭学の手ほどきをしていたのですが、さらに勉強を深めるために大坂に出ました。大坂で開業しつつ、蘭学修業を続けているうちに、良順の評判はどんどんあがり、2年後の文政12年の歌舞伎俳優に見立てた大坂の医者番付をみると、上の段の一番左に橋本曹(宗)吉、ついで島本良順、その右に中天游が記されています。良順の評価は精緻とあり、すでに橋本宗吉、中天游と並ぶほどの実力と評価があったのです。◆島本良順は文政年間の末に、佐賀へ帰って蘭学塾を開きます。その良順を招いたのが、佐賀藩儒者古賀穀堂でした。幕府昌平黌の教師となった佐賀藩出身儒者古賀精里の長男です。古賀穀堂は儒者でありながら蘭学は世界一統の学問として、蘭学学習と医学校の設立の必要性を、藩主らに説き、やがて若い藩主鍋島直正の時代になって、天保5年(1834)に医学寮が設立され、良順が寮監として西洋医学の講義を開始します。◆良順に蘭学の手ほどきをうけた大庭雪斎は、良順が佐賀へ戻るのと前後して、大坂にでて中天游の塾に、緖方洪庵(1810~63)とともに学びました。雪斎は洪庵より4歳年上の兄弟子でした。雪斎刪定の志筑忠雄『暦象新書』の序に、「先師天游中先生ニ従ヒ、緒方洪庵ト同窓シテ、共ニ此書ノ説ヲ受ケ、自ラ謄写シテ家ニ帰レリ」とあり、雪斎は、中天游の蘭学塾で洪庵とともに蘭書を学び、志筑忠雄の『暦象新書』も見ることができました。そのあと、いったん郷里に帰ります。緖方洪庵が中天游に学ぶのが文政9年(1826)から天保元年(1830)なので、雪斎の緖方洪庵との同窓時期はそのころとみられます。◆洪庵は天保元年(1830)から江戸に出て、苦学のすえ、翌年から坪井信道に学びます。中天游が天保6年(1835)に亡くなったため、いったん江戸から大坂に戻り、中天游塾を守り、天保7年から9年まで長崎で修業後、大坂瓦町で蘭学塾適々斎塾を開きます。この年、29歳の洪庵は、中天游門人の一人億川百記の娘八重(17歳)と結婚します。◆大庭雪斎は、弘化2年(1845)から同4年の間、再び大坂にでて、医者を開業しつつ本格的に洪庵の適塾に通いました。当時の雪斎の居所は、『医家名鑑』(弘化2年刊)に「内科今橋二丁目大庭雪斎」とあり、過書町の適塾から数百㍍の場所で、開業しながら、適塾にある原書ガランマチカなどを読み解いたのです。その成果は雪斎訳のオランダ文法書『訳和蘭文語』となります(刊行は安政3,4年)。緒方洪庵は『訳和蘭文語』後編の題言に、「西肥雪斎大庭氏予(洪庵)同窓之友也、幾強仕憤然起志、始読西藉不耻下向不遠千里来游于予門、焦思苦心、衷褐未換而其学大成矣」とかいてあり、洪庵と同門であること、雪斎は西洋の書籍をはじめて読むことを恥じずに、千里の道を遠しとせずに大坂で洪庵門に入り苦労して大成したと書いてあります。雪斎と洪庵のきずなの深さがわかります。◆ですから、洪庵塾で研鑽を積み、実力をつけた雪斎は、洪庵が義弟緒方郁蔵の助けをかりて数十年かけて刊行した名著『扶氏経験遺訓』の毎巻本文には、「足守 緒方章公裁、義弟郁子文 同訳、大庭忞景徳 参校」と校正役として毎巻の最初に記載されるまでになったのでした。
◆雪斎は、嘉永4年(1851)、佐賀藩が西洋科学技術を導入するにあたり、その研究機関である蘭学寮の初代教導となり、安政元年(1854)に弘道館教導となり、安政5年(1858)に好生館ができるとその教導方頭取となり、医学生延べ650人にもなる幕末期における我が国最大の西洋医学校である好生館の校長として、西洋医学教育を推進したのでした。◆一方、適塾で門下生を指導していた緖方洪庵は、江戸に呼ばれます。呼んだのは、古賀穀堂の弟の古賀謹一郎と、佐賀藩医で奧医師の伊東玄朴でした。古賀謹一郎は、プチャーチンが来航した嘉永6年(1853)に交渉役の川路聖謨に随行し、長崎までやってきて反射炉もみて帰ります。謹一郎は、西洋研究の重要性を老中らに説き、やがて洋学所焼失後の洋学研究機関である蕃書調所の設置にこぎつけ、謹一郎が校長として、箕作阮甫と杉田成卿を教授として、全国から優秀な蘭学者を集めます。安政3年(1856)に最先端の洋学研究所が作られました。安政5年(1858)に伊東玄朴らが江戸お玉が池種痘所を開設したのは、川路の屋敷でした。玄朴らは、ここを拠点に西洋医学を発展させるために、万延元年(1860)には、幕府直轄の種痘所にし、文久元年(1861)に西洋医学所に発展させたのでした。しかし文久2年にこの頭取の大槻俊斎が亡くなったので、玄朴らは緖方洪庵を次の頭取にと招いたのでした。最初は断っていた洪庵でしたが、西洋医学推進のため、江戸に下ります。しかし、まだほとんどなにもできていないなかでの苦労が重なり、文久3年(1863)の6月、突然の大喀血で洪庵は亡くなります。54歳でした。この洪庵の追悼の墓碑銘を書いたのが古賀謹一郎でした。幕末の西洋医学、西洋学術推進に、