薬剤取調之方法の歴史的意義
2024年12月15日
洋学 at 18:49 | Comments(1)
2024年12月14日 佐賀医学史研究会発表レジュメ
はじめに
「薬剤取調之方法」という書類が佐賀県立図書館に所蔵されている。
パソコンでも佐賀県立図書館の古文書データベースへ「薬剤取調之方法」と入力して検索をかければ、相良家資料のなかに出てくる。
調べてみると、この史料は、わが国医薬制度の成立に極めて重要な史料であることが判明した。
1.研究史
根本曽代子『日本の薬学』(南山堂、1981年)には「長与専斎は明治6年3月初め帰国して、文部省医務局長に就任早々、太政官の急な用命で、薬剤取締方策に力を注ぐ。西欧の異質の制度を導入するに際して、医学校教師ミュルレル、ホフマンに諮問したところ、国情習慣が異なるので、早期の実現は極めて困難が予知されたが、施行可能と思われる方法を調査して、施行可能と思われる方法を調査して、成案を提出した」とあり、長与専斎が、文部省医務局長になってから、この薬剤取締方策についてミュルレル・ホフマンに諮問したとあるが、諮問したのは長与専斎でなく、相良知安の諮問の誤り。
『薬学史事典』では、「さらに文部省は、主にホフマンがまとめた答申をもとに1873年(明治6年)、わが国薬事制度の原型となる「薬剤取締之法」(「薬剤取調之法」の誤り)28項を具申した。そのなかで薬舗および薬舗主の明確化、医家の売薬禁止(医薬分業)、司薬場の設置、日本薬局方の編纂、製薬学校の開設など近代化の計画を示し、実行に乗り出した。文部省が具申した」とある。
『薬学史入門』(日本薬史学会、2022年)では、「薬事制度の原型『薬剤取締之法』として「文部省医務局長の長与専斎は、ミュルレルとホフマンに西洋の薬事取締制度を諮問し、答申を得た。長与はそれをもとにわが国薬事制度の原型となる「薬剤取締之法」を作成。、1873(明治6)年、太政大臣に提出した」とし、その内容は薬舗の免許制、医薬分業、司薬場による検査制度の確立、製薬学科の新設であるとした。『薬剤取締之方法』は「長与専斎が作成させた」という記述になっており、誤りである。
2.「薬剤取調之方法」の作者
薬剤取調之方法」(佐賀県立図書館蔵)の用箋が第一大学区医学校(のちの東京大学医学部)とある。
用箋が第一大学区医学校とあることに注意してほしい。
長与専斎が「薬剤取調之方法」や「医制」の立案者とする研究者は、この用箋が第一大学区医学校のものであることに気が付かない誤りだった。このときの学校長は誰か、長与専斎でなく相良知安であった。
3.明治5年から明治6年の相良知安
相良知安は明治5年10月8日に「文部五等出仕」となり、同日に「第一大学区医学校学長被仰付」けらる。(明治6年9月30日まで校長)
同年11月28日に「大学校設立掛」を仰せつけられ改革を再開した。
さらに、明治6年3月19日付けで文部省築造局長、3月24日付けで文部省初代医務局長となり、第一大学区医学校校長として医制改革に乗り出した。
知安にとって緊急課題の一つが外国からの贋薬の取締だった。
オランダ人化学者ゲールツ Anton Johannes Cornelis Geerts (1843~1883)は明治2年(1869)に長崎医学校の予科の究理学。化学教師となった。明治5年(1872)に長崎税関の頼みをうけ、輸入キニーネの検査をしたところ、粗悪品や贋薬が多いため、検査機関(司薬局)の設置を、井上大蔵大輔に上申し、その上申書が知安のもとに届いた。
相良知安らは「薬剤取調之法」作成のため、明治5年10月段階から動いていた。
はじめに
「薬剤取調之方法」という書類が佐賀県立図書館に所蔵されている。
パソコンでも佐賀県立図書館の古文書データベースへ「薬剤取調之方法」と入力して検索をかければ、相良家資料のなかに出てくる。
調べてみると、この史料は、わが国医薬制度の成立に極めて重要な史料であることが判明した。
1.研究史
根本曽代子『日本の薬学』(南山堂、1981年)には「長与専斎は明治6年3月初め帰国して、文部省医務局長に就任早々、太政官の急な用命で、薬剤取締方策に力を注ぐ。西欧の異質の制度を導入するに際して、医学校教師ミュルレル、ホフマンに諮問したところ、国情習慣が異なるので、早期の実現は極めて困難が予知されたが、施行可能と思われる方法を調査して、施行可能と思われる方法を調査して、成案を提出した」とあり、長与専斎が、文部省医務局長になってから、この薬剤取締方策についてミュルレル・ホフマンに諮問したとあるが、諮問したのは長与専斎でなく、相良知安の諮問の誤り。
『薬学史事典』では、「さらに文部省は、主にホフマンがまとめた答申をもとに1873年(明治6年)、わが国薬事制度の原型となる「薬剤取締之法」(「薬剤取調之法」の誤り)28項を具申した。そのなかで薬舗および薬舗主の明確化、医家の売薬禁止(医薬分業)、司薬場の設置、日本薬局方の編纂、製薬学校の開設など近代化の計画を示し、実行に乗り出した。文部省が具申した」とある。
『薬学史入門』(日本薬史学会、2022年)では、「薬事制度の原型『薬剤取締之法』として「文部省医務局長の長与専斎は、ミュルレルとホフマンに西洋の薬事取締制度を諮問し、答申を得た。長与はそれをもとにわが国薬事制度の原型となる「薬剤取締之法」を作成。、1873(明治6)年、太政大臣に提出した」とし、その内容は薬舗の免許制、医薬分業、司薬場による検査制度の確立、製薬学科の新設であるとした。『薬剤取締之方法』は「長与専斎が作成させた」という記述になっており、誤りである。
2.「薬剤取調之方法」の作者
薬剤取調之方法」(佐賀県立図書館蔵)の用箋が第一大学区医学校(のちの東京大学医学部)とある。
用箋が第一大学区医学校とあることに注意してほしい。
長与専斎が「薬剤取調之方法」や「医制」の立案者とする研究者は、この用箋が第一大学区医学校のものであることに気が付かない誤りだった。このときの学校長は誰か、長与専斎でなく相良知安であった。
3.明治5年から明治6年の相良知安
相良知安は明治5年10月8日に「文部五等出仕」となり、同日に「第一大学区医学校学長被仰付」けらる。(明治6年9月30日まで校長)
同年11月28日に「大学校設立掛」を仰せつけられ改革を再開した。
さらに、明治6年3月19日付けで文部省築造局長、3月24日付けで文部省初代医務局長となり、第一大学区医学校校長として医制改革に乗り出した。
知安にとって緊急課題の一つが外国からの贋薬の取締だった。
オランダ人化学者ゲールツ Anton Johannes Cornelis Geerts (1843~1883)は明治2年(1869)に長崎医学校の予科の究理学。化学教師となった。明治5年(1872)に長崎税関の頼みをうけ、輸入キニーネの検査をしたところ、粗悪品や贋薬が多いため、検査機関(司薬局)の設置を、井上大蔵大輔に上申し、その上申書が知安のもとに届いた。
相良知安らは「薬剤取調之法」作成のため、明治5年10月段階から動いていた。
この記事へのコメント
青木先生へ 先日の本会「総会・研発」(12/14)及び「忘年会」は、盛会裡に終了しお疲れ様でした。
当日の青木先生のご発表は、スライドもにで配布レジュメがなかったのですが、本ブログにて詳細を把握し助かりました。
有り難うございました。相良 隆弘より
当日の青木先生のご発表は、スライドもにで配布レジュメがなかったのですが、本ブログにて詳細を把握し助かりました。
有り難うございました。相良 隆弘より
Posted by 相良 隆弘 at 2024年12月16日 12:27