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近代の種痘規則と相良知安

2024年04月22日

 洋学 at 10:32  | Comments(0) | 医学史 | 科学史 | 洋学 | 地域史 | 日本史 | 医学史
◆近代の種痘と医制
◆佐賀藩が全国に先駆けて、牛痘種痘の接種に成功したことはよく知られている。しかも好生館で全領内へ組織的な接種を無料で実施したことも、青木歳幸「牛痘伝来再考」・「佐賀藩の種痘」(『天然痘との闘い 九州の種痘』、岩田書院、2018)などで詳細に明らかになった。
◆今回、佐賀医学史会報185号に、南里早智子さんが調査解読した種痘医の島田良意の履歴書を掲載するにあたり、種痘規則について整理してみた。
◆佐賀藩が嘉永2年(1849)に、全国にさきがけて、天然痘予防の種痘実施に成功し、全国へ分苗するとともに、好生館が主導して領内全域へ無料で組織的に実施した。
◆明治時代になっても種痘を組織的に全国で実施する必要性があったので、佐賀藩好生館出身の相良知安(医学校取調掛、のち大学東校校長)は、大学東校時代の明治3年(1870)に「大学東校種痘館規則」を制定し、種痘を行う者は必ず大学東校に入校して種痘技術を習得することとした。
◆しかし、これは全国に広がっていたという無数の種痘医たちの実情と彼らの生活を無視した内容だったので、翌年「種痘局規則」を制定し、従来の種痘医は、師家より習熟の証書を得て、履歴書に添えて地方役所に提出すれば免状を与えるとした。
◆この方針は、相良知安起草の「医制略則」(明治6年ごろ)第36章(条)に「天然痘病理治方ノ概略及ヒ牛痘ノ性状種法ヲ心得タルモノヲ検シ種痘免状ヲ与ヘ施術ヲ許す〔牛痘種法条例別冊アリ〕」となり、長与専斎公布の「医制」(明治7年8月18日公布)第37条の「種痘ハ天然痘病理治方ノ概略及ヒ牛痘ノ性状種法ヲ心得タル者ヲ撿シ仮免状ヲ与ヘテ施術ヲ許ス」にそのまま受け継がれた。
◆この方針は明治9年(1876)の「種痘医規則」にも受け継がれ、医師とは別に、種痘医という身分と開業が確保されるとともに、種痘に関する法制も相良知安が構想した明治3年の「種痘規則」に基づいて全国的に広がったのだった。種痘という観点からも、佐賀藩の影響が、医制に強くあったことが理解できよう。  


佐賀藩は江戸時代から医薬分析をおこなった。

2024年04月19日

 洋学 at 06:57  | Comments(0)
◆前回は佐賀藩の医薬分業が、相良知安による「薬剤取調之方法」、相良知安起草「医制略則」、「医制」における医薬分業につながったことを紹介した。今回は、佐賀藩における幕末から明治における医薬分析について紹介する。
◆佐賀藩薬種商野中烏犀圓家には、大量の医書以外にさまざまな古文書や書画類もある。写真は、ずっと以前に古文書整理を担当していた伊藤昭弘さんが「永代日記」から見つけたもの。
◆嘉永4年(1851)野中家など烏犀圓・反魂丹・地黄丸などの製薬業者が、それぞれの鑑定願を佐賀藩施薬方に提出し、施薬方の鑑定により、それぞれ、従来通り許可された。
乍恐奉願口上覚
某元え調合差免置候烏犀圓・反魂丹・地黄丸之儀、御医師様方時々御立会御鑑定被成下候処より効能自然と相願、御領中ハ不及申、御隣領遠国までも只様相弘り、繁栄仕難有奉存候、
然処先年於医学寮二施薬局鑑定之御印、御彫刻相成、
其以後奉願候処、牛黄・清心円其外之儀は、右御彫刻之御印奉乞請居候え共、我々調合之儀は表包並能書をも以前之形ニて売弘罷在候
自余二不相見合訳を以先般右能書相改候様可被仰付之処、共通ニてハ買取之向々疑念も可致哉二付、矢張打追之通ニメ(シテ)売弘候様蒙御達、尚又難有奉存候、
◆佐賀藩は、嘉永4年(1851)に、医師は命を預かる大事な仕事だから、佐賀藩領内全医師に対し試験合格者のみに開業免許を与える医業免札制度を開始した。安政5年(1858)に西洋医学校好生館を設立、ポンペ式西洋医学教育を展開し、領内医師への再教育をすすめるとともに、施薬局で売薬鑑定もすすめた。
◆佐賀藩領内では、まだ漢方医学による医師も多かったため、文久元年(1861)には、佐賀藩領内全医師に漢方医を禁止し、西洋医学に変えないと、配剤を認めない、つまり開業できないと命令を出した。
◆こうした西洋医法への変更の流れをうけて、製薬業者も西洋薬への転換を模索せざるを得なくなった。明治元年(1868))11月9日の好生館施薬局に対し、領内製薬業者から次のような鑑定願が出された。
◆烏犀圓・清心円・地黄丸・反魂丹
右書載之丸散、先年来鑑定差免置候処、当時医術一般西洋法ニ被相改候ニ付、何分鑑定難相整、被御取上候段、相達被置候処、薬方取捨打追鑑定被仰付度、其人共より願出相成、薬方逐吟味被相改候ニ付、如願鑑定被差免候、尤鑑定印突整相成義候条、以来右印形乞請候様被仰付儀ニ候、以上
 辰(明治元年)十一月廿九日
右之趣奉畏候  以上
   此  久保庄兵衛、野口恵助、村岡勝兵衛一 烏犀圓薬方の内、水銀・軽粉・白附子一、三品御除籍ニ相成候
◆佐賀藩領内では、医術一般が西洋法に改めるようになったので、従来のままでは鑑定許可が難しいということなので、水銀と軽粉と白附子は除くように相改めますので、これで鑑定を許してくださいと願い出ている。
◆この結果、鑑定が行われ、烏犀圓などは、製造許可が出たのだった。ここから、佐賀藩では好生館施薬局が薬品の成分善悪・分析を担当しており、偽薬なども排除していたことがうかがえる。
◆こうした佐賀藩における薬品分析の前例が、相良知安によって前回紹介した「薬剤取調之方法」の医薬分業や司薬局設置による薬品分析につながり、『医制略則』、『医制』への医薬分業、司薬局設置など、三府(東京・京都・大阪)から我が国の近代薬事制度へと展開していくことになったのだった。  


医薬分業は相良知安が構想した。

2024年04月16日

 洋学 at 19:55  | Comments(0) | 医学史 | 洋学 | 蘭学 | 医学史
◆今日は、我が国における「医薬分業」ということは誰が提唱したのかを考えてみたい。
◆いま、佐賀城本丸歴史館発行予定の「相良知安関係文書」を解読し編集している。4月13日(土)の佐賀医学史研究会では、『医制』における医師の国家資格試験制度の先駆的制度が佐賀藩の医業免札制度であったこと、『医制』における薬品分析の司薬場設置の先駆の一つが佐賀藩施薬方、好生館施薬局にあったこと、『医制』における西洋医学科目の学習は、ポンペに始まり佐賀藩西洋医学校好生館での医学7科の学習にあることなどを、相良知安起草の『医制略則』の条文との共通性を整理して紹介した。
◆医薬分業ということは、『医制』(明治7年8月18日公布)には第41条に「医師タル者ハ自ラ薬ヲ鬻クコトヲ禁ス、医師ハ処方書ヲ病家ニ付与シ相当ノ診察料ヲ受クヘシ」となっており、この条文で初めて我が国の医薬行政を医薬分業とすることが公布された。
◆じつは、これも相良知安起草の『医制略則』第40章(条)「医師タル者ハ自ラ薬ヲ鬻ク事ヲ禁ス、医師ハ処方書ヲ製シテ病家ニ付与シ相当ノ診察料ヲ受クヘシ」がもとになっていることは、一目瞭然である。
◆さらに『医制略則』に先行するのが、写真の『薬剤取調之方法』(佐賀県立図書館所蔵文書)であった。そのいくつかの条文を解読すると、第十条に「後来医家ヨリ薬品ヲ売ルヲ禁止シ、医家ノ書記セル方書ヲ薬舗ニ送ルヘキ事、但シ当今ノ形勢未タ医家ノ法則一定セサル間ハ、医師自ラ薬剤ヲ病者ニ与フルヲ許ルス、然レトモ医師政府ヨリ別ニ投剤免許ヲ受クヘシ、其後用ユル品々ハ免許アル薬舗ヨリ買入レ、其貯ヘタル品類ハ臨時撿査ヲ受クルコト薬舗ニ貯フ者ノ如クナルヘシ」と医薬分業のことがすでに記されている。
◆第十一条には「薬舗ハ日本国司薬局局方〔未編輯〕中ニ記載セル諸薬ヲ精撰シ、貯蔵ス可キ事」とあり、未編輯とあるので、すでに、薬剤の統一的基準となる日本薬局方の編集をすすめていることもわかる。
◆『薬剤取調之方法』の筆者は、相良知安で、知安の整った筆記体で清書され、第一大学区医学校(明治5年8月~7年5月、のち東京医学校)の用箋を使用している。
◆この史料の作成年代を比定すると、第一大学区医学校の用箋を使用しているので、相良知安が、明治5年10月8日に第一大学区医学校学長(校長)に任命され、明治6年3月19日に文部省築造局長に任命され、明治6年3月24日に、文部省医務局長への兼務を任命されており、明治6年6月13日にいずれも罷免されているので、知安が第―大学区医学校長として、医制改革を命ぜられた明治5年 10月8日から罷免された明治6年6月 13日までに、医薬分業の今後のあり方についてまとめた条文とみてよい。
◆この序文に「今般医学校御雇教師ニ西洋諸国薬品ノ制度ヲ問合候処、国土民風相異り、俄二行ハレ難キヲ以テ、当時行ハルベキ方法ヲ]今味取調候翻訳左ノ如シ」とある。つまり、近代日本の薬品制度について、医学校お雇い教師に、西洋諸国薬品の制度を問い合わせたところ、国土や民風も違うのですぐには実施できないでしょうと言われたので、我が国の国土民風にあう薬品制度を吟味し、知安が翻訳し、まとめた薬剤取調の法がこれらの条文といえる。
◆この時期、知安の近くにいたお雇い教師は、 ドイツ陸軍軍医レオポルト・ミュルレル(1824-1893、 在日期間1871~1875)と、ドイツ陸軍軍医テオドール・ホフマン(1837-1894、 在日期間1871-1875))の二人で、大学東校(のち第―大学区医学校)の教師として、来日していた。
◆「薬剤取調之方法」の第一条では、薬品員売は、政府の許可を得た薬舗に限るべき事とあり、薬舗は政府の営業許可を必要とするとした。
◆第二条は、製剤家に薬舗の免許状を与えるには、学術の有無を試験して薬舗必用の諸学と実地技術を通学させて初めて免許状を与える、しかし現状は学術通暁の製剤家は得がたいので、先に免状を与えて何年かのちに試験をして、そのとき学術不備の者は免状を除去するとした。
◆第二条の背景には、佐賀藩の試験によって医師開業免状を与える医業免札制度がある。佐賀藩は医業免札制度を嘉永4年 (1851)から開始したが、結局、好生館ができるまでは、開業医に対しては、試験なしでも免状を与えていたが、好生館ができてから、そこで修業したものには、前の免状を取り戻してから新たな開業免状を与えた。その方法を第一大学区医学校でも用いた。
◆第三条には、薬種免許は当人の存命中のみとし、死後は政府に返納すること。本国続人が薬舗を相続したい場合は(世襲ではな<)試験を経て免状を渡すことと書かれている。
◆ 第十条は前述した医薬分業の規定である。
◆「薬剤取調之方法」の第十三条に「医家之方書二従テ調剤スル時ハ、各品定価表二因ルヘシ、其定価表ハー月一日及ヒ七月一日卜年皮二回前以テ普告シ置ヘキ事」とあり、医薬分業の際に、薬舗の調剤にあたつては薬の定価表通りによること、年2回薬価の改定を行うことを定めている。知安は医薬分業にあたって、こ
のように詳細な取り決めを考えていた。
◆十七条、十八条では薬は日本司薬局に集めることとし、さらに第十九条では「薬舗二貯ヘタル諸薬品ハ総テ司薬局官員ノ注意シテ管轄スヘキ事トス」と司薬局の薬品管理のことを述べ、第二十条では「司薬局宮員ハ薬舗中ノ諸品ヲ検査スルノ権アリ、殊二用二堪ヘサル物品或ハ偽品等ヲ買却ス疑ヒアルトキハ臨時直二不意二起リテ検査ヲ施ス可キ事」と、司薬局の任務に、諸薬品の検査、偽薬の摘発などがあるとした。
◆この司薬局の任務が、どのように変遷するか検討する。相良知安起草「医制略則」(明治6年6月頃か、全85条、文部省用箋)の第52条の「東京府下三司薬局ヲ設ケ、其支局ヲ便宜ノ地方二置テ薬品検査及ヒ薬舗・売薬取締等ノ事ヲ管ス」とある。
◆さらに知安の門人的な佐賀藩出身医師永松東海が修正したとみられる「医制」(全78条、明治7年3月 13日許可、文部省用箋。永松と朱書あり)の第54条の「東京府下三司薬局ヲ設ケ、其支局ヲ便宜ノ地方ニ置テ薬品検査及ヒ薬舗・売薬取締等ノ事ヲ管知ス」とを比較すれば、ほとんど「医制略則」のとおりであることがわかる。
◆長与専斎公布の「医制」(76条、明治7年8月18日公布、文部省用箋)には、「○第四薬舗 付売薬、第五十四条 東京府下三司薬局ヲ設ケ、便宜ノ地方二其支局ヲ置キ薬品検査及ヒ薬舗売薬等ノ事ヲ管知ス、司薬局章程別冊アリ第五十五条 調薬ハ薬舗主薬舗手代及ヒ薬舗見習二非サレバ之ヲ許サス、但シ、薬舗見習ハ必ス薬舗主若クハ手代ノ差図ヲ受ケ其目前ニテ調薬スヘシ」
とあり、専斎公布の「医制」の司薬場関係条文は、相良知安の「医制略則」52条、永松東海の「医制」54条に基づいていることが判明し、さらにいえば知安の「薬剤取調之法」の第17、 18、 19、 20条にそれらのもとの条文があることが理解できる。
◆以上から、我が国医薬行政の法制の基礎づくりは、長与専斎によるのではなく、第一大学区医学校長で初代医務局長の相良知安と部下の永松東海や第一大学区医学校グループが、すでに明治5年段階で作り上げ、長与専斎は、第2代医務局長という立場で成案を発表公布したのであって、長与専斎が『医制』を作ったという説(神谷昭典、青柳精一氏ら)は訂正されねばならない。
  


狐憑き、精神病理学者安藤昌益

2020年12月02日

 洋学 at 05:49  | Comments(0)
◆巫女以外にも、女性の異能を示すものに、狐憑きがありました。元禄3年(1690)に、甲府徳川領の代官所へ、同領の田野口村(現佐久市)の百姓伝三郎が、女房に「おいづな(飯綱)」がとりついてしまい、方々から参詣人がきて迷惑するので、ご公儀様より参詣禁止の命令を出していただいたところ、参詣人がなくなりましたとの証文を差し出しています。(『長野県史』史料編東信地方2-1)
◆狐憑きは管狐(くだぎつね)ともいわれ、別名は飯綱(いづな)とか飯縄権現とも言い、中部地方、東北地方の霊能者などが占いなどに使用しました。飯綱使いは、飯綱を操作して、予言など善なる宗教活動を行うのと同時に、依頼者の憎むべき人間に飯綱を飛ばして憑け、病気にさせるなどの悪なる活動をすると信じられていました。
◆しかし、18世紀に狐憑きは存在しないと客観的に分析したのが、東北八戸の医者安藤昌益(1703~1762)でした。彼は優れた精神病研究者で、ドイツのクレペリン(1856~1926)が1896年に躁鬱病(manische-depressives Iresein)概念を初めて確立しますが、その150年ほど前に、躁鬱病の本質を解明していました。詳しくは別の機会に譲りますが、狐憑きについても「狐ハ人ニ付クニ非ズ、人ヨリ狐ニ附ク也」(『自然真営道』)において、人間の心が狐憑きを生み出すことを述べています。
  


江戸時代の女性点描3 巫女

2020年12月02日

 洋学 at 05:45  | Comments(0)
(佐賀医学史研究会報144号より)
◆江戸時代に神と現世をつなぐ霊媒の役割を担っていたのが巫女でした。ずっと以前に長野県の『東部町誌』の編さんに関わったときに、民俗研究者の長岡克衛さんが東部町地域にいた「ののう巫女」(別称「梓神子」)の話を書いてくれたので、それをまとめてみました。
◆東部町は、現在は、上田市の東にある東御市にあたります。その祢津地区の古御館(ふるみたち)という集落には、江戸時代に「ののう」と呼ばれる巫女たちが一大集落をなして住んでおり、50戸ほどの巫女の家が建ち並んでいたといいます。
◆中山太郎『日本巫女史』などには、この集落は日本一の巫女村と記されています。彼女らは、一人の男の宰領に引き連れられ、春先から冬の手前、えびす講の時期までに旅に出ます。その範囲は、東海道筋から伊勢・美濃・和泉まで、東は白河関あたりまでその足跡が確かめられています。
◆「ののう」とは「のう、のう」と口々に呼ばわって歩くことからの呼称といいます。信州や越後などでは神仏のことを「のんのさま」ともいいますが、これはこの「のうのう」から派生した言葉ともいわれます。関西ではまんまんさまというようです。
◆巫女たちは、梓弓と外法(げほう)箱と呼ばれる細長い箱を持ち歩き、旅をします。彼女らが立ち寄った家へは、近隣から主に女性たちが集まり、それぞれの願いを伝えます。巫女は、外法箱の上に両ひじをつき、手のひらに首をのせ、水を入れたちゃわんを前におき、目をふさぎ、ものに憑かれたように呪文を唱え、失神状態になります。神や霊が乗り移った巫女はお告げを伝え始めます。
◆巫女が伝えるお告げには、神がおりる神口、現世の不安を取り除いたり占いをする生口、死んだ人の霊をよみがえらせる死口とがあります。呪文を唱えた彼女らは、神おろしをして、神のお告げやまじないや祈祷を、集まった人たちに伝えるのです。このお告げを口寄せといいます。
◆例えば、死んだ子供の声を聞かせてほしいという願いの女性へは、巫女にその子供の霊が乗り移り、あたかも生き返ったように話してくれます。すると女性たちは、涙を流して口寄せを聞くのです。
◆現代でも東北地方にのこる「口寄せ」、「いたこ」と言われる女性たちのお告げと同様のものです。青森県の恐山の「いたこ」は、外法箱のかわりに数珠や鹿など動物の頭蓋骨、あるいは木の実などを刺し通した大数珠を使う所が、ののう巫女とは違います。
◆江戸時代に忍従をしいられた女性たちにとって、巫女のお告げは、不安を取り除く精神的な安らぎを与えるものでした。祢津地区には4,50年ほど前まで鍼針(かんしん)製作所がありました、これは、巫女たちが、女性たちの鍼灸医療にまで関わっていたことの名残でした。
◆巫女らは、全国の巫女を支配する浅草の田村八太夫の取締下に入り、全国各地を歩くことを許された通行手形を発行され、各地を比較的自由に旅をしました。春から秋にかけての長い旅を終えた巫女たちは、かなりの収入を持って帰郷するので祢津地区はかなりの賑わいを見せたともいわれます。
◆巫女は、「ののう」の家に養子縁組をして入ります。貧しい家の娘たちが売られるようにして巫女になったものも多かったと推測されます。3~5年ほどの厳しい修業を経て、一人前の巫女として、各所に旅立っていきます。
◆「ののう巫女」の最盛期は18世紀の後半あたりでした。明治時代になると、戸籍制度も整備され、職業選択の自由のなかで、衰退しました。
◆祢津にある興善寺がその菩提寺で、彼女らのお墓には、社女、巫女、神女などの戒名が与えられています。(以前、なんどもここへ行って写真を撮ったのですが、現在、その写真がみあたりません)  


柴澤コレクション展

2020年11月16日

 洋学 at 12:07  | Comments(0) | 文化史 | 文化交流史 | 地域史
◆今朝(11月16日)の佐賀新聞の論説、古賀史生さんが、九州陶磁文化館で開催中の柴澤コレクション展について書いていた。
◆古賀さんは、とくに「佐渡で見つかった砂目積みの跡が残る「染付花唐草文小皿」(1610~30年代)は、有田焼きの原点とも呼べる貴重な品だ。焼け焦げた砂の跡が皿の中央と高台に残っているが、これは「砂目」と呼ばれ、砂混じりの泥団子を挟み込んで焼いた跡だ。」と注目し、「この小皿は、有田焼きの先進性を象徴する品と言えるだろう」と述べている。写真がそれである。
◆どういうことか、当時、中国からの輸入が途絶えたとき、そのぽっかり空いた市場を埋めたのが有田焼で、白磁にブルーの染め付けを施しているのは、当時、中国で珍重されていた中国のデザインに似せたからで、ほかにも中国の年号「成化」を銘に記した皿もいくつもある。
◆ということは、人気のデザインを柔軟、かつ大胆に取り入れる姿勢は、現代の有田にも共通している。現在、人気のデザイナーを呼んでのコラボも行われている。つまりコストの品質の両立を目指した姿勢は、現代も変わらない姿勢とする。
◆もう一つのキーワードは北前船である。北前船によって有田焼は日本海沿岸に大量に運ばれた。まさに流通革命である。現代のICT(情報通信)革命にもにた変化という。
◆新型コロナウイルスによって、今年の有田陶器市は中止を余儀なくされた。代わりに目を付けたのが「web陶器市」だった。一週間で2億4500万円を売り上げたという。
◆まさにピンチはチャンスである。在宅勤務が増えたとき、ネット販売が好調であり、その市場は国内だけでなく世界に開かれている。
◆有田陶器がデザインの先進性と品質を保ちつつ、市場、国内市場だけでなく、とくに国際市場への広がりが、今後の有田の未来を切り開いていくと思う。中国の輸入が絶えたとき、世界市場へ有田焼が古伊万里として輸出された。まさにその時代が改めてやってくることを予感するのである。
◆1100点もの柴澤コレクションを一堂に見られるのはこれが最初で最後であろう。古賀さんは「コロナ危機をどう乗り越えるか、その勇気と知恵をくれるコレクションである」と結んでいる。まったく同感である。12月13日まで。  


『性差の日本史』図録から

2020年11月16日

 洋学 at 12:05  | Comments(0)
◆国立歴史民俗博物館の『性差の日本史』が届いた。314頁余のずっしり重い図録である。同館がめざす「多様性」と「現代的視点」の展示の一つとしてジェンダー視点から歴史をみることの重要性を提起したもので、大いに話題を呼んでいる。
◆じつに古代から近現代まで、性差に関わる政治、家、仕事、くらし、性の売買などに関しての展示と解説が充実している。近世でいえば、髪結い、大奥、遊女のくらしなどに焦点があたる。
◆遊郭吉原での火事は幕府が倒れるまで23回発生しているが、そのうち13回は遊女の放火によるものという。なぜ遊女が放火したのか、遊郭梅本屋での放火事件の裁判記録や遊女の記録からそれを伝えてくれる。
◆嘉永2年(1849)に京町1丁目遊女屋梅本屋に抱えられた遊女16人が2年以上合議を重ねて集団で放火し、抱え主佐吉の非道を訴えるため集団で自首するという事件がおきた。大火にならないように細心の注意を払っての放火であった。
◆『梅本記』(東北大学附属図書館蔵)がその裁判記録である。遊女たちの数人が日記を残していた。奉行所に提出された、ひらがなとわずかな漢字の組み合わせによる彼女らの日記から、佐吉の非道ぶりが浮き上がる。
◆それは、仕置き・折檻などの日常的な暴力、劣悪な食生活、さらに紋日とよばれる料金が二倍となる日に客がつかなければ遊女が自分で負担をする仕舞い金などの金銭的な抑圧が、遊女らを苦しめ、放火に至ったのであった。
◆裁判の結果は、図録だけでは不明だが、企画展代表の横山百合子さんは、そのなかで遊女たちが書くことを通じて自らを見つめるという行為の意味は小さくなかったと記している。
◆信州下高井郡井上村(現須坂市)の豪農坂本家に残された遊女からの書翰も紹介されている。とくにのちに高橋由一の「美人(花魁)」のモデルになった小稲などの書状が紹介されている。
◆近世でいえば、もう少し農漁村の女性も描いて欲しかったが、性差という視点からの初めての企画展であり、目からうろこがおちる刮目すべき展示である。12月6日まで。
  


7月11日の記事

2020年07月11日

 洋学 at 11:22  | Comments(0)
本日(7月9日)の佐賀新聞論説。「古賀穀堂遺稿」刊行と題して近世史料第8編第5巻の紹介。論者の古賀史生さんは、この本のもとになった穀堂資料の多くは、森鷗外が東京博物館総長のときに買い集め、92冊の遺稿の半数近くの表紙に自ら書き込みをしているほど、鷗外が古賀穀堂に深く共鳴していたことを紹介している。
◆また本書からは、穀堂がめざしたリーダー像は米沢藩主上杉鷹山であり、幼い鍋島直正をどのように鷹山のようなリーダーにしていこうとしたかも見えてくると記す。
◆鷗外は福山藩儒者の史伝も手がけ、古賀穀堂も登場させているほど、穀堂に共感し、彼がもう少し生きていたら穀堂伝も書いたかもしれない。史料集そのものは漢文なのだが、つい読みたくさせる書評的論説である。問い合わせ・注文は佐賀県立図書館郷土資料室(0952-24-2900)まで。
◆鷗外は、幕府種痘科医師の池田京水にも深く関心をもち、多くの史料を集めていた。京水は、池田痘科を開いた池田瑞仙の養子となった池田瑞英の号で、天然痘予防の牛痘法が伝来し普及されるまでは、池田京水らの治痘法が我が国天然痘治療の代表的な方法で、門人も多くいた。
◆鷗外は、ほかにも伊沢蘭軒、渋江抽斎など儒者や医師の伝記を書いたが、それぞれそこにどのような人間と時代像を描き出そうとしていたのだろうか。今日は鷗外の命日でもある。  


池田痘科家門人

2020年07月11日

 洋学 at 11:19  | Comments(0)
鷗外が資料を集めていた幕府痘科医師池田京水のまとめた『重校痘科弁要』(文政4、1821)に門人録「升堂門生録」が載っている。以前、本書を調査した西巻明彦氏によれば天明8 年(1782)から文化8 年(1811)まで234人の門人が載っているとあるが、本書を調べてみると220人だった。
◆播州出身者が56人と圧倒的に多く、ついで甲州出身者が27人で続くのが大きな特徴。なぜかは今後の研究課題。肥前出身者は島田順碩、西岡健順、芥川祥甫、古賀仲安、谷川元齢、日高元慄の6人、島田、西岡、古賀は佐賀藩医と見える。
◆信州出身者は、堀内桂仙、住山友仙、赤羽俊騰、沢辺升純の4人。堀内桂仙家からは華岡青洲門の堀内玄堂、堀内桂造らが出て、松本藩領での種痘にも関与した。沢辺家は京都小石家門人沢辺升朔、沢辺雄二郎が出ている。沢辺升純との関係は不明。住山友仙の関係では華岡青洲門の住山友賢がいる(青木歳幸『在村蘭学の研究』)
◆泉州の大和見水が門人として記載されていた。伊良子流外科医で、華岡青洲の師である大和見立(1750~1827)の養父である。ただ時期があわないので、大和見立の息子あたりかもしれない。
◆18世紀後半から19世紀前半にかけて、池田流の痘科が我が国の天然痘治療に大きな影響を与えていた。これが天然痘予防の牛痘法が広がることにより、抵抗しているうちにやがて衰退していくのだが、地方においてはどのような動きを見せたのだろうか、今後の課題でもある。  


12月16日の記事

2019年12月16日

 洋学 at 10:37  | Comments(0)
◆面白い本が出た。『論集 大奥人物研究』(東京堂出版、2019年10月10日、6800円+税)である。編者は、竹内誠・深井雅海・松尾美恵子・藤田英昭ら。
◆論考は第Ⅰ章妻としての役割では、小宮山敏和「家康と生きた女性たち」、崎山健文「武家から輿入れした御台所」、吉川美穂「将軍姫君の婚姻とその特権」。第Ⅱ章「政治に生きた女性」では、深井雅海「大奥老女・姉小路の政治力」、高田綾子「徳川幕府における<乳母>」、朝倉有子「大名の奥」。第Ⅲ章女性の著作と教養では、久保貴子「正親町町子」、神埼直美「充真院の知的な日常生活」、渋谷葉子「川路高子とその日記」、第Ⅳ章数奇な運命に生きた女性では、竹内誠「梅津の一生」、松尾美恵子「月光院」、大口勇次郎「農村女性の大奥奉公」。第Ⅴ章大奥女性の心の支えでは石田綾「桂昌院と寺院」、畑尚子「宗教・信仰と大奥」、藤田英昭「幕末維新期の大奥と「淘宮術」」など15論考を掲載。
◆『徳川「大奥」事典』(東京堂出版、2015年)の姉妹編として編集・刊行したもの。上記の論考はそれぞれの角度から、大奥とその女性たちの歴史的に果たした役割を追求しており、じっくり読むことで、政治史や文化史・女性史などにも照明をあてることになるだろう。
◆私が本書で一押しに紹介したいのは、374頁から487頁にかけての付録である。徳川将軍家妻妾一覧は妻妾名(別称)、父氏名、法号、生児、生没年(享年)、墓所(墓碑等)、備考と詳細に記録されている。私は家斉の子供は56人と理解していたが、流産を含めて57人であったことが判明した。
◆付録はまだまだ続く。徳川将軍家子女一覧、尾張徳川家妻子一覧、水戸徳川家妻子一覧、田安徳川家妻子一覧、一橋徳川家妻子一覧、大奥関係主要文献一覧など総110頁余の、よくぞ調べたと感嘆するほどの付録であり、江戸時代研究に必見の付録となっている。