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洋学

佐賀藩は江戸時代から医薬分析をおこなった。

2024年04月19日

 洋学 at 06:57 | Comments(0)
◆前回は佐賀藩の医薬分業が、相良知安による「薬剤取調之方法」、相良知安起草「医制略則」、「医制」における医薬分業につながったことを紹介した。今回は、佐賀藩における幕末から明治における医薬分析について紹介する。
◆佐賀藩薬種商野中烏犀圓家には、大量の医書以外にさまざまな古文書や書画類もある。写真は、ずっと以前に古文書整理を担当していた伊藤昭弘さんが「永代日記」から見つけたもの。
◆嘉永4年(1851)野中家など烏犀圓・反魂丹・地黄丸などの製薬業者が、それぞれの鑑定願を佐賀藩施薬方に提出し、施薬方の鑑定により、それぞれ、従来通り許可された。
乍恐奉願口上覚
某元え調合差免置候烏犀圓・反魂丹・地黄丸之儀、御医師様方時々御立会御鑑定被成下候処より効能自然と相願、御領中ハ不及申、御隣領遠国までも只様相弘り、繁栄仕難有奉存候、
然処先年於医学寮二施薬局鑑定之御印、御彫刻相成、
其以後奉願候処、牛黄・清心円其外之儀は、右御彫刻之御印奉乞請居候え共、我々調合之儀は表包並能書をも以前之形ニて売弘罷在候
自余二不相見合訳を以先般右能書相改候様可被仰付之処、共通ニてハ買取之向々疑念も可致哉二付、矢張打追之通ニメ(シテ)売弘候様蒙御達、尚又難有奉存候、
◆佐賀藩は、嘉永4年(1851)に、医師は命を預かる大事な仕事だから、佐賀藩領内全医師に対し試験合格者のみに開業免許を与える医業免札制度を開始した。安政5年(1858)に西洋医学校好生館を設立、ポンペ式西洋医学教育を展開し、領内医師への再教育をすすめるとともに、施薬局で売薬鑑定もすすめた。
◆佐賀藩領内では、まだ漢方医学による医師も多かったため、文久元年(1861)には、佐賀藩領内全医師に漢方医を禁止し、西洋医学に変えないと、配剤を認めない、つまり開業できないと命令を出した。
◆こうした西洋医法への変更の流れをうけて、製薬業者も西洋薬への転換を模索せざるを得なくなった。明治元年(1868))11月9日の好生館施薬局に対し、領内製薬業者から次のような鑑定願が出された。
◆烏犀圓・清心円・地黄丸・反魂丹
右書載之丸散、先年来鑑定差免置候処、当時医術一般西洋法ニ被相改候ニ付、何分鑑定難相整、被御取上候段、相達被置候処、薬方取捨打追鑑定被仰付度、其人共より願出相成、薬方逐吟味被相改候ニ付、如願鑑定被差免候、尤鑑定印突整相成義候条、以来右印形乞請候様被仰付儀ニ候、以上
 辰(明治元年)十一月廿九日
右之趣奉畏候  以上
   此  久保庄兵衛、野口恵助、村岡勝兵衛一 烏犀圓薬方の内、水銀・軽粉・白附子一、三品御除籍ニ相成候
◆佐賀藩領内では、医術一般が西洋法に改めるようになったので、従来のままでは鑑定許可が難しいということなので、水銀と軽粉と白附子は除くように相改めますので、これで鑑定を許してくださいと願い出ている。
◆この結果、鑑定が行われ、烏犀圓などは、製造許可が出たのだった。ここから、佐賀藩では好生館施薬局が薬品の成分善悪・分析を担当しており、偽薬なども排除していたことがうかがえる。
◆こうした佐賀藩における薬品分析の前例が、相良知安によって前回紹介した「薬剤取調之方法」の医薬分業や司薬局設置による薬品分析につながり、『医制略則』、『医制』への医薬分業、司薬局設置など、三府(東京・京都・大阪)から我が国の近代薬事制度へと展開していくことになったのだった。



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