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洋学

京都の名医吉益東洞の佐賀門人

2019年01月31日

 洋学 at 17:46 | Comments(1)
京都の名医吉益東洞の佐賀門人
                                青木歳幸
 山脇東洋と吉益東洞
 19世紀の中頃から、京都で漢方医学を革新する一人の医師があらわれた。名を吉益東洞という。安芸国(広島県)の出身で、京都にでて、天皇家侍医の山脇東洋の門人となった。山脇東洋は、宝暦4年(1754)に我が国で初めて日本人による人体解剖を実施して、5年後に『蔵志』という解剖書を著した人物である。
 山脇東洋の医説を発展させたのが、吉益東洞だった。東洞は30歳のころ、万病の原因は毒にありとする万病一毒説を唱え、毒には毒(強い薬)をもって制するとした。この理論は、毒を病原菌と考えると近代医学に通じ、漢方医学を一新させるもので、門人が全国から集まった。
 吉益東洞のあとは、吉益南涯、吉益北洲、吉益復軒と吉益塾は続いた。
吉益家の門人録
 吉益家の門人録が『通刺記』で、多久出身の鶴田冲元逸が当初編纂しはじめ、鶴田元逸が宝暦6年になくなってからは、吉益家で代々、書き継いだものである。この門人録については町泉寿郎氏の詳細な研究がある。町泉寿郎「吉益家門人録(一)~(四)」(『日本医史学雑誌』47巻1号・2号・4号、48巻2号所収)は、三種の吉益家の門人録を校合し、重複を除いた吉益家門人は、東洞門544人、南涯門1375人、北洲門677人、復軒門361人、計2957人と集計した。
吉益家門人録にみる肥前門人
 その翻刻から、肥前(佐賀県域部分)出身門人を以下のように抄出できた。番号は町氏が付けた整理番号。( )内は入門年。
 まず「東洞先生 宝暦元年ヨリ安永二年ニ至ル」門人録には、
(宝暦八年以前)
 17鶴田 冲 字元逸 西肥久多(多久の誤記))佐嘉人
 50西玄碩西肥多久佐嘉人、とあり、吉益東洞門人は、鶴田冲と西岡春益の2人が記されている。
 次に東洞の子吉益南涯の「南涯先生 安永三年ヨリ文化十年ニ至ル」門人録には、
(寛政四年)225・165富永隆宣 肥州大曲之産
      633・631岡部尚達 肥前之産 自謁七月十八日
(文化六年)1232×松隈甫庵 肥前佐賀侯医官
      1247西岡俊益肥前鍋島/
(文化七年)1291・×山﨑松亭肥州佐賀侯医官の5人が見える。
 南涯のあとを継いだ吉益北洲の「(北洲先生)従文化十年 至文政十二年」門人録には
(文化十五年)128 野口元順 肥前佐嘉今宿之人 木村元雄招介
(文政七年)270 中村幸庵 肥前藤津郡塚崎之人 高倉三条下ル鎌田喜一郎招介(文政八年)302斎藤寛水 肥前三根郡六田村之人 浅川良節招介
(天保四年)522佐久間尚平 肥前唐津之人」の4人が記されている。
 北洲のあとを継いだ復軒門人には、
(弘化二年)22副島琢斉((ママ)) 肥州佐嘉 三月九日
(嘉永四年)大須賀見栄 肥州佐嘉藩中 中村主殿招介 三月十五日
(安政二年)173宮田道英 肥前唐津松浦郡玉島之人 年齢廿三 二村慶助招介 正月十二日
(安政二年)180楢崎浚明 肥前国松浦郡 年齢二十八 二村周斎招介 三月二十八日」と4人の門人が記載されている。以上15人の肥前出身の門人のなかで、東洞の医説をもっともよく理解し広めた一人が多久出身の鶴田冲元逸である。西岡春益は佐賀藩医で施薬方として活躍し、野中烏犀圓の製薬にあたっている。
鶴田元逸の系図
 門人帳の17の鶴田元逸が、『通刺記』を編纂し始めた医師鶴田冲で、多久出身であった。多久家家臣鶴田九郎太夫忠の三男として享保12年(1727)に、多久に生まれた。冲、元偲ともいう。
 『多久諸家系図巻之四』(多久市郷土資料館蔵)鶴田家系図』(多久市郷土資料館蔵)によれば、鶴田家は長兄も次兄も早世したため、一族の冲が跡を継いだ。
 冲 元偲 学醫、族人寉田九郎太夫忠三男、宝暦六年子十月十七日卒、法名鶴林道仙、妻早田八郎右衛門元女、文化四年卯四月四日卒、法名蕙室禎芳、墓上々図

 冲は、元逸と改名して医を志し、京都の古方派医師吉益東洞に入門した。
 鶴田元逸は入門後、東洞の医説をまとめるべく『医断』を編集しはじめた。延享4年(1747)に序文を書き、編集途中の宝暦6年(1756)10月16日に30歳の若さで亡くなったため、同門の京都の医師である中西深斎が虚実編を補足して、宝暦9年(1759)に刊行した。
『医断』と天命論争 
 『医断』には、長門出身儒医滝鶴台の序文のほか、師の吉益東洞の宝暦2年の序文があるので、東洞の医説を正しく述べたものといえる。 
内容は、司命、死生、元気、脈候、腹候、臓腑、経絡、鍼灸、栄衛、陰陽、五行、運気、薬能、薬産、古方、名方、仲景書、病因、治方、産褥、初誕、痘診など三七編からなり、東洞の医説を明快に紹介している。
 『医断』の名を高めたのは、東洞の天命説であった。東洞は、「死生は命なり、天より之を作す。医も之を救うこと能わず」(『医断』死生編)とし、病気は医治の対象であるが、患者の生命は天命であって、医のあずかり知らないところであるから、人事をつくして天命を待つ覚悟で、治療に専念せよというものであった。
 これに対し、本書が刊行されると、京都の古方医家畑黄山が、この天命説に激しく反発し、三年後に『斥医断』を著して、全面的批判を展開した。黄山は、吉益子の天命説は、凡庸の医者にとっては自分の医術の未熟さを隠す言い逃れに使われてしまう大きな害を為すものだと批判し、天命説論争が展開した。
 東洞説の背景には、死に近い患者を診て亡くなれば、自分の名に傷がつくから診
ないという風潮があり、東洞は、そういう臆測をもって、患者を診ない医師がいるのでかえって鬼籍に追いやることになると批判しての天命説だった。
 東洞説の支持者は中西深斎のほか、村井琴山『医道二千年眼目』、加屋恭安『続医断』ら、黄山説支持者は山脇東門(『東門随筆』)、亀井南冥(『続医断』)らで、江戸時代最大の医学論争となった。
 現代でも、尊厳死や延命治療、終末期医療をめぐる論争はつきない。患者の死を前にして、医師はどうあるべきか、江戸時代の医師も真剣に向き合っていたのである。
佐賀藩医上村春庵の出自
 吉益東洞の門人録をみているとあらたなことに気がついた。うえむら病院の先祖に上村春庵がいる。吉益東洞に学び、長崎に出て、西洋医学を学び、佐賀藩医となって活躍した名医で、以後同家は代々佐賀の医家として現代につながっている。この上村春庵は、江州(近江、滋賀県)の出身とつたえられてきた。たしかに、吉益東洞の門人録の宝暦12年(1762)の入門者のところに「244 上村淳平 改春庵 江州麻布飯倉片町之人」とあるので、宝暦12年に、東洞に入門後、淳平から春庵と改名したことがわかり、「江州麻布飯倉片町の人」とあるので江州の人であると思ったが、麻布飯倉片町は現在の東京都港区の町名なので、江州は武州の書き間違いで、春庵は武蔵出身だったかもしれない。原本は東京大学図書館にあるようなので、いつか機会をみて調査をしたいと考えている。
【参考文献】鶴田元逸については、『佐賀医人伝』(佐賀新聞社、2018年)、天命論争については、青木歳幸『江戸時代の医学』(吉川弘文館、2012年)。上村春庵については、『うえむら病院二百五十年史』(うえむら病院、2015年)。



この記事へのコメント
青木 歳幸
16分 ·
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◆ようやく『天然痘との闘いⅢー中部日本の種痘』(岩田書院、2022年9月刊行、7400円+税)が家に届いた。9月中旬には、店頭に並ぶのではと思う。注文は、岩田書院か地方小流通出版センター経由でご自宅へ届けられるだろう。
◆内容目次は、以下の通りだが、福井藩・鯖江藩の種痘(柳沢芙美子)は笠原良策の種痘活動が中心だった研究を、その後の展開を克明に描いた労作。信濃の種痘(青木歳幸)は信濃各地の種痘の展開状況をのべ、種痘研究で医師会の研修会ができ、やがて近代の医師会や病院設立へつながったことを描いた。紀州古座浦の疱瘡騒動史料(青木歳幸)は疱瘡の大流行が村役人の失政によるものとして村役人追放まで引き起こした事例を紹介している。
◆本書で際だつのは、種痘の普及の原動力は、全国各地の蘭方医による圧倒的なネットワークの力によるもので、それが藩や幕府を動かし、民衆を巻き込んでいったということを実感させられる。
◆コロナ禍のなかで、調査がままならないなかでも、それぞれ、丹念に実地で調査して集めた史料にもとづいてまとめた本でありり、ひときわ感慨が深い。
◆専門書ではあるが、できるだけ歴史に関心のある方にも読んでいただけたらと教科書的叙述に心がけた本である。種痘史研究の蓄積は大きいが、このように、種痘をテーマに全国の地域を横断する研究は、本シリーズが初めてである。あとは、『天然痘との闘いⅣー東日本の種痘』を待つのみとなった。刊行にあたり、岩田書院さんには今度も大変お世話になった。感謝申し上げる。
【序章】
 中部日本の種痘の地域性・・・・・・・・・・青木歳幸
【総論】
1 近世日本における皮下接種法について・・・W・ミヒェル
【各論】
2 越佐の種痘・・・・・・・・・・・・・・・・西巻明彦
  コラム1 佐渡の風土と長野秋甫・・・・・・西巻明彦
3 幕末~明治初期における越中の種痘・・・・・海原 亮
4 福井藩および鯖江藩の種痘と村部への出張種痘・柳沢芙美子
5 信濃の種痘と医療の近代化・・・・・・・・・青木歳幸
6 甲斐の種痘       ・・・・・・・・・中野賢治
  コラム2 伊豆の種痘・・・・・・・・・・・工藤雄一郎
7 美濃・飛騨の種痘・・・・・・・・・・・・・杉村啓治
  コラム3 飯沼慾斎の種痘・・・・・・・・・杉村啓治
  コラム4 三河の種痘・・・・・・・・・・・青木歳幸
8 尾張名古屋における伊藤圭介の種痘・・・・・山内一信
9 津藩の種痘・・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸
【補論】
  コラム5古座浦の疱瘡騒動・・・・・・・・・青木歳幸
10大和の種痘と谷三省(景命)・・・・・ ・・・ 淺井允晶
【史料編】
1 美濃・飛騨における種痘の展開・・・・・・・杉村啓治
2 信濃の種痘史料・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸
3 笠原良策の門人帳「天香楼登門題名」・・・・柳沢芙美子
4 ほうそうを物語る史料・・・・・・・・・・・稲垣裕美
  コラム6 三枚の種痘宣伝引札・・・・・・・青木歳幸
あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸
Posted by アオキトシユキ at 2022年09月05日 15:24
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