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医薬分業は相良知安が構想した。

2024年04月16日

 洋学 at 19:55 | Comments(0) | 医学史 | 洋学 | 医学史 | 蘭学
◆今日は、我が国における「医薬分業」ということは誰が提唱したのかを考えてみたい。
◆いま、佐賀城本丸歴史館発行予定の「相良知安関係文書」を解読し編集している。4月13日(土)の佐賀医学史研究会では、『医制』における医師の国家資格試験制度の先駆的制度が佐賀藩の医業免札制度であったこと、『医制』における薬品分析の司薬場設置の先駆の一つが佐賀藩施薬方、好生館施薬局にあったこと、『医制』における西洋医学科目の学習は、ポンペに始まり佐賀藩西洋医学校好生館での医学7科の学習にあることなどを、相良知安起草の『医制略則』の条文との共通性を整理して紹介した。
◆医薬分業ということは、『医制』(明治7年8月18日公布)には第41条に「医師タル者ハ自ラ薬ヲ鬻クコトヲ禁ス、医師ハ処方書ヲ病家ニ付与シ相当ノ診察料ヲ受クヘシ」となっており、この条文で初めて我が国の医薬行政を医薬分業とすることが公布された。
◆じつは、これも相良知安起草の『医制略則』第40章(条)「医師タル者ハ自ラ薬ヲ鬻ク事ヲ禁ス、医師ハ処方書ヲ製シテ病家ニ付与シ相当ノ診察料ヲ受クヘシ」がもとになっていることは、一目瞭然である。
◆さらに『医制略則』に先行するのが、写真の『薬剤取調之方法』(佐賀県立図書館所蔵文書)であった。そのいくつかの条文を解読すると、第十条に「後来医家ヨリ薬品ヲ売ルヲ禁止シ、医家ノ書記セル方書ヲ薬舗ニ送ルヘキ事、但シ当今ノ形勢未タ医家ノ法則一定セサル間ハ、医師自ラ薬剤ヲ病者ニ与フルヲ許ルス、然レトモ医師政府ヨリ別ニ投剤免許ヲ受クヘシ、其後用ユル品々ハ免許アル薬舗ヨリ買入レ、其貯ヘタル品類ハ臨時撿査ヲ受クルコト薬舗ニ貯フ者ノ如クナルヘシ」と医薬分業のことがすでに記されている。
◆第十一条には「薬舗ハ日本国司薬局局方〔未編輯〕中ニ記載セル諸薬ヲ精撰シ、貯蔵ス可キ事」とあり、未編輯とあるので、すでに、薬剤の統一的基準となる日本薬局方の編集をすすめていることもわかる。
◆『薬剤取調之方法』の筆者は、相良知安で、知安の整った筆記体で清書され、第一大学区医学校(明治5年8月~7年5月、のち東京医学校)の用箋を使用している。
◆この史料の作成年代を比定すると、第一大学区医学校の用箋を使用しているので、相良知安が、明治5年10月8日に第一大学区医学校学長(校長)に任命され、明治6年3月19日に文部省築造局長に任命され、明治6年3月24日に、文部省医務局長への兼務を任命されており、明治6年6月13日にいずれも罷免されているので、知安が第―大学区医学校長として、医制改革を命ぜられた明治5年 10月8日から罷免された明治6年6月 13日までに、医薬分業の今後のあり方についてまとめた条文とみてよい。
◆この序文に「今般医学校御雇教師ニ西洋諸国薬品ノ制度ヲ問合候処、国土民風相異り、俄二行ハレ難キヲ以テ、当時行ハルベキ方法ヲ]今味取調候翻訳左ノ如シ」とある。つまり、近代日本の薬品制度について、医学校お雇い教師に、西洋諸国薬品の制度を問い合わせたところ、国土や民風も違うのですぐには実施できないでしょうと言われたので、我が国の国土民風にあう薬品制度を吟味し、知安が翻訳し、まとめた薬剤取調の法がこれらの条文といえる。
◆この時期、知安の近くにいたお雇い教師は、 ドイツ陸軍軍医レオポルト・ミュルレル(1824-1893、 在日期間1871~1875)と、ドイツ陸軍軍医テオドール・ホフマン(1837-1894、 在日期間1871-1875))の二人で、大学東校(のち第―大学区医学校)の教師として、来日していた。
◆「薬剤取調之方法」の第一条では、薬品員売は、政府の許可を得た薬舗に限るべき事とあり、薬舗は政府の営業許可を必要とするとした。
◆第二条は、製剤家に薬舗の免許状を与えるには、学術の有無を試験して薬舗必用の諸学と実地技術を通学させて初めて免許状を与える、しかし現状は学術通暁の製剤家は得がたいので、先に免状を与えて何年かのちに試験をして、そのとき学術不備の者は免状を除去するとした。
◆第二条の背景には、佐賀藩の試験によって医師開業免状を与える医業免札制度がある。佐賀藩は医業免札制度を嘉永4年 (1851)から開始したが、結局、好生館ができるまでは、開業医に対しては、試験なしでも免状を与えていたが、好生館ができてから、そこで修業したものには、前の免状を取り戻してから新たな開業免状を与えた。その方法を第一大学区医学校でも用いた。
◆第三条には、薬種免許は当人の存命中のみとし、死後は政府に返納すること。本国続人が薬舗を相続したい場合は(世襲ではな<)試験を経て免状を渡すことと書かれている。
◆ 第十条は前述した医薬分業の規定である。
◆「薬剤取調之方法」の第十三条に「医家之方書二従テ調剤スル時ハ、各品定価表二因ルヘシ、其定価表ハー月一日及ヒ七月一日卜年皮二回前以テ普告シ置ヘキ事」とあり、医薬分業の際に、薬舗の調剤にあたつては薬の定価表通りによること、年2回薬価の改定を行うことを定めている。知安は医薬分業にあたって、こ
のように詳細な取り決めを考えていた。
◆十七条、十八条では薬は日本司薬局に集めることとし、さらに第十九条では「薬舗二貯ヘタル諸薬品ハ総テ司薬局官員ノ注意シテ管轄スヘキ事トス」と司薬局の薬品管理のことを述べ、第二十条では「司薬局宮員ハ薬舗中ノ諸品ヲ検査スルノ権アリ、殊二用二堪ヘサル物品或ハ偽品等ヲ買却ス疑ヒアルトキハ臨時直二不意二起リテ検査ヲ施ス可キ事」と、司薬局の任務に、諸薬品の検査、偽薬の摘発などがあるとした。
◆この司薬局の任務が、どのように変遷するか検討する。相良知安起草「医制略則」(明治6年6月頃か、全85条、文部省用箋)の第52条の「東京府下三司薬局ヲ設ケ、其支局ヲ便宜ノ地方二置テ薬品検査及ヒ薬舗・売薬取締等ノ事ヲ管ス」とある。
◆さらに知安の門人的な佐賀藩出身医師永松東海が修正したとみられる「医制」(全78条、明治7年3月 13日許可、文部省用箋。永松と朱書あり)の第54条の「東京府下三司薬局ヲ設ケ、其支局ヲ便宜ノ地方ニ置テ薬品検査及ヒ薬舗・売薬取締等ノ事ヲ管知ス」とを比較すれば、ほとんど「医制略則」のとおりであることがわかる。
◆長与専斎公布の「医制」(76条、明治7年8月18日公布、文部省用箋)には、「○第四薬舗 付売薬、第五十四条 東京府下三司薬局ヲ設ケ、便宜ノ地方二其支局ヲ置キ薬品検査及ヒ薬舗売薬等ノ事ヲ管知ス、司薬局章程別冊アリ第五十五条 調薬ハ薬舗主薬舗手代及ヒ薬舗見習二非サレバ之ヲ許サス、但シ、薬舗見習ハ必ス薬舗主若クハ手代ノ差図ヲ受ケ其目前ニテ調薬スヘシ」
とあり、専斎公布の「医制」の司薬場関係条文は、相良知安の「医制略則」52条、永松東海の「医制」54条に基づいていることが判明し、さらにいえば知安の「薬剤取調之法」の第17、 18、 19、 20条にそれらのもとの条文があることが理解できる。
◆以上から、我が国医薬行政の法制の基礎づくりは、長与専斎によるのではなく、第一大学区医学校長で初代医務局長の相良知安と部下の永松東海や第一大学区医学校グループが、すでに明治5年段階で作り上げ、長与専斎は、第2代医務局長という立場で成案を発表公布したのであって、長与専斎が『医制』を作ったという説(神谷昭典、青柳精一氏ら)は訂正されねばならない。


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