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洋学

江戸時代の女性点描3 巫女

2020年12月02日

 洋学 at 05:45 | Comments(0)
(佐賀医学史研究会報144号より)
◆江戸時代に神と現世をつなぐ霊媒の役割を担っていたのが巫女でした。ずっと以前に長野県の『東部町誌』の編さんに関わったときに、民俗研究者の長岡克衛さんが東部町地域にいた「ののう巫女」(別称「梓神子」)の話を書いてくれたので、それをまとめてみました。
◆東部町は、現在は、上田市の東にある東御市にあたります。その祢津地区の古御館(ふるみたち)という集落には、江戸時代に「ののう」と呼ばれる巫女たちが一大集落をなして住んでおり、50戸ほどの巫女の家が建ち並んでいたといいます。
◆中山太郎『日本巫女史』などには、この集落は日本一の巫女村と記されています。彼女らは、一人の男の宰領に引き連れられ、春先から冬の手前、えびす講の時期までに旅に出ます。その範囲は、東海道筋から伊勢・美濃・和泉まで、東は白河関あたりまでその足跡が確かめられています。
◆「ののう」とは「のう、のう」と口々に呼ばわって歩くことからの呼称といいます。信州や越後などでは神仏のことを「のんのさま」ともいいますが、これはこの「のうのう」から派生した言葉ともいわれます。関西ではまんまんさまというようです。
◆巫女たちは、梓弓と外法(げほう)箱と呼ばれる細長い箱を持ち歩き、旅をします。彼女らが立ち寄った家へは、近隣から主に女性たちが集まり、それぞれの願いを伝えます。巫女は、外法箱の上に両ひじをつき、手のひらに首をのせ、水を入れたちゃわんを前におき、目をふさぎ、ものに憑かれたように呪文を唱え、失神状態になります。神や霊が乗り移った巫女はお告げを伝え始めます。
◆巫女が伝えるお告げには、神がおりる神口、現世の不安を取り除いたり占いをする生口、死んだ人の霊をよみがえらせる死口とがあります。呪文を唱えた彼女らは、神おろしをして、神のお告げやまじないや祈祷を、集まった人たちに伝えるのです。このお告げを口寄せといいます。
◆例えば、死んだ子供の声を聞かせてほしいという願いの女性へは、巫女にその子供の霊が乗り移り、あたかも生き返ったように話してくれます。すると女性たちは、涙を流して口寄せを聞くのです。
◆現代でも東北地方にのこる「口寄せ」、「いたこ」と言われる女性たちのお告げと同様のものです。青森県の恐山の「いたこ」は、外法箱のかわりに数珠や鹿など動物の頭蓋骨、あるいは木の実などを刺し通した大数珠を使う所が、ののう巫女とは違います。
◆江戸時代に忍従をしいられた女性たちにとって、巫女のお告げは、不安を取り除く精神的な安らぎを与えるものでした。祢津地区には4,50年ほど前まで鍼針(かんしん)製作所がありました、これは、巫女たちが、女性たちの鍼灸医療にまで関わっていたことの名残でした。
◆巫女らは、全国の巫女を支配する浅草の田村八太夫の取締下に入り、全国各地を歩くことを許された通行手形を発行され、各地を比較的自由に旅をしました。春から秋にかけての長い旅を終えた巫女たちは、かなりの収入を持って帰郷するので祢津地区はかなりの賑わいを見せたともいわれます。
◆巫女は、「ののう」の家に養子縁組をして入ります。貧しい家の娘たちが売られるようにして巫女になったものも多かったと推測されます。3~5年ほどの厳しい修業を経て、一人前の巫女として、各所に旅立っていきます。
◆「ののう巫女」の最盛期は18世紀の後半あたりでした。明治時代になると、戸籍制度も整備され、職業選択の自由のなかで、衰退しました。
◆祢津にある興善寺がその菩提寺で、彼女らのお墓には、社女、巫女、神女などの戒名が与えられています。(以前、なんどもここへ行って写真を撮ったのですが、現在、その写真がみあたりません)



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