ドイツ兵俘虜慰霊碑
2015年11月03日
洋学 at 23:00 | Comments(0) | 文化交流史
ミヒェル先生調査のコメントを今後の資料として掲載させていただきました。
第一次大戦に参加した日本は中国青島のドイツ要塞を攻略し、俘虜となった5000名近くが各地の収容所に分散収容された。「ドイツ兵俘虜」といっても親善訪問で日本に来る途中、開戦に巻き込まれ、青島でドイツ軍に合流したオーストリア・ハンガリーの巡洋艦「カイゼリン・エリーザベト」号の乗組員も含まれるほか、現在のドイツ、オーストリアの他、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、ユーゴ、北イタリア出身者が含まれている。
久留米は戦闘に携わった18師団司令部の所在地だったためか、久留米収容所はその中でも最も人数が多く、大正3年(1914)10月6日開始、大正9年(1920)3月12日閉鎖
*) 敷地:29,000㎡ 収容人数:1319人(最大時)坂東・習志野・青野原・似島の各収容所に比べて、久留米が一番狭かった。
11名の死者が久留米山川陸軍墓地に埋葬されたが、大戦終結後の1920年1月16日、土葬されていたコッホとパウリ―以外の9名の遺骨は火葬されていてドイツ側委員に引渡された。
「SCHWERT ENTWUNDEN DURCH SCHICKSALS MACHT GEFANGEN GEBUNDEN SANKT IHR ZUR NACHT」
(運命の力によって剣を奪われ、捕らえられ、拘束されて君らは夜の帳に沈んだ)
台座には
「ZUM GEDAECHTNNIS DEN KAMERADEN DIE FERN HEIMAT STARBEN」
(故郷遠く没した 戦友達を偲んで)
Koch(コッホ),Heinrich(?-1914): 海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。[鍛冶職人]。1914年9月28日ヴァルダーゼー高地で俘虜となったが、負傷していたため久留米衛戍病院に送られた。10月25日、重病になったコッホは、所長樫村弘道少佐、所員の山本茂中尉に「故国の母親によろしく伝えて欲しい」との遺言を残し同日、同病院で死亡。グラボウ(Grabow)中尉、ベスラー(Boe sler)少尉及び下士2名が病院に駆けつけた。
葬儀に際してはグラボウ中尉の別れの言葉、弔辞(樫村所長・通訳は山本中尉)、久留米市代表の弔辞、仏教の僧侶が線香を焚く。写真家達が葬儀の様子を撮影し、100人に及ぶ群衆が見つめていたという。ハンブルク出身。(久留米)
Emoan(エーモアン),Max(1887-1915): 第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。1914年12月14日、収容されていた熊本西光寺を脱柵した科で、憲兵留置所で重謹慎2日の処罰を受けた。1915年7月21日の晩に久留米で死亡、23日に久留米山川陸軍墓地に埋葬された。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)上部バイエルンのトロスベルク(Trossberg)出身。
Simon(ジーモン),Robert(?-1916): 第3海兵大隊第2中隊・伍長。1916年3月19日久留米で死亡。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)117頁には、ジーモンの葬儀の様子、写真4点が掲載されている。ザクセンのグリューン(Gru"n)出身。(熊本→久留米)
Boesler(ベスラー),Ernst(1880-1916): 第3海兵大隊第2中隊・後備陸軍歩兵少尉。1914年9月28日、浮山で日本軍に包囲され、退却を求めて協議を申し出るが武装解除され俘虜となる。グラーボウ(Grabow)中尉等60名が俘虜となった。10月9日、日本への俘虜第一陣として門司に到着し、久留米俘虜収容所に送られた。【『日獨戰史』 402頁等より】1916年4月18日、肺結核兼肋膜炎により久留米で死亡。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)116頁には、ベスラー少尉を送る葬列、6点の写真が掲載されている。ドイッチュアイラウ(Deutscheylau)出身。
Sanz(ザンツ),Josef(?-1916): 巡洋艦皇后エリーザベト乗員(オランダ・ハンガリー)日本へ親善訪問で来る途中、開戦に巻き込まれ、ドイツ軍に合流した・2等水兵。1916年4月21日久留米で死亡。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)117頁には、ザンツの葬儀の様子や墓標を写した写真3点が掲載されている。ボヘミアのニームブルク(Niemburg)出身。(熊本→久留米)
Schlund(シュルント),Alfred(?-1918): 海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等機関兵曹。 1918年3月13日久留米で死亡。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)118頁には、シュルントの葬儀の様子を写した写真が掲載されている。ツヴィッカウ郡のシュタインプライス(Steinpleis)出身。(福岡→久留米)
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Pouly(パオリー)Karl(1886-1918)第3海兵大隊第2中隊・軍曹。1886年3月9日、商人の子としてザールブリュッケンに生まれた。1914年9月28日、浮山周辺で日本軍に包囲され、グラーボウ中尉等60名が俘虜となったが、その折りパオリー軍曹は、部下11名とともに逃れた。1918年3月26日久留米で死亡。ザールブリュッケン出身。(熊本→久留米)
Werner(ヴェルナー),Alfred(?-1918): 第3海兵大隊機関銃隊・2等焚火兵。1918年5月8日久留米で死亡。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)119頁には、ヴェルナーの葬儀の様子等の写真が掲載されている。
シュレージエンのローンシュトッホ(Rohnstoch)出身。(熊本→久留米)
Kettgen(ケットゲン),Johann(?-1919): 第3海兵大隊機関銃隊・上等兵。1919年3月2日、久留米で死亡。
ラインラントのホムベルク(Homberg)出身。(熊本→久留米)
Po"nitz(ペーニッツ),Erich(?-1919): 第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1919年8月2日肺結核により久留米で死亡。西プロイセンのプロイスィッシュ=シュタルガルト(Proissisch-Stargard)出身。(熊本→久留米)
Bauer(バウアー),Josef(?-1919): 第3海兵大隊第6中隊・補充後備兵。(1919年11月7日久留米で死亡)
ドナウ河畔のヴェルト(W?rth)出身。(熊本→久留米)
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各兵士に関する項目、最後尾についての説明
(久留米):初めから久留米収容所に収容されていた
(熊本→久留米):熊本収容所→久留米収容所へ移送されたことを示す
第一次世界大戦に参戦した我が国は、中国青島のドイツの要塞を攻め落とし、多数のドイツ兵を俘虜とした。彼等を収容するため、大正3年(1914)10月から同9年(1920)3月まで、久留米に俘虜収容所が置かれたが、多い時には1319名を収容し、全国12ヵ所の収容所でも最大規模だった。
5年余の収容期間に戦場での傷がもとで2名、病気などで9名、合わせて11名が亡くなった。これらの死者の追悼のため、俘虜達は帰国に際し、この慰霊塔を建立した。
碑の正面には収容期間を示す西暦と剣が、両側面には死者の姓が記されている。
背面にはドイツ語で「運命の力により剣を奪われ、捕らわれの人となり黄泉の国に去った汝ら」、台座には「故郷はるか遠く逝った同志たちの思い出のために」と鎮魂の詩が刻まれている。
俘虜は長い抑留生活の中でも、音楽会・作品展示会・スポーツ大会などを催し、市民との交流を深め、近代の久留米の芸術・文化や市民生活に大きな影響を与えた。
この俘虜収容所のオーケストラは、大正5年(1916年)2月25日にベートーベンの「第8交響曲」を演奏した。同6年3月4日の「第5」、同7年10月16日の「第1」同8年3月26日の「第7」も日本初演。(すべて4楽章通し)。
大正8年(1919)12月3日、久留米高女から招待され、ベートーベンの交響曲「第9」を演奏した。(*関連資料:平成19年度の明善高等学校創立記念日(明善高等学校へリンク))
またドイツの進んだ科学技術は後に久留米の基幹産業たるゴム産業の技術革新に大きな貢献をしている。久留米の歴史にドイツ兵俘虜は大きな足跡を残している。
(資料:現地説明版・日本経済新聞 2003年(平成15年)6月23日(月曜日)文化面)
ドイツ兵捕虜の妻は、青島から夫を追って久留米の八軒屋付近に居住したという。
たまたま青島に寄港していた他国船の乗組員も捕虜になっていたという。
また、北野天満宮・善導寺境内・発心公園の桜、高良山(御井町広手・御手洗橋・高良大社正面階段・大社社頭)・筑後川(水浴)・神代端・宮の陣(梅)・久留米高女(迎賓館敷地内)での演奏会で写された写真なども残っているらしい。
1914年(大正3)11月7日ドイツ軍の降伏で出た大量の捕虜を収容するために東京、名古屋、大阪、姫路、松山、丸亀、福岡、熊本に俘虜収容所が開設された。
久留米でも京町梅林寺(書院、旦過寮)・大谷派久留米教務所(日吉小学校運動場東部分)・篠山町の久留米城二の丸跡にあった料亭香霞園(当時休業状態)が増設され、後に高良台演習廠舎(藤光町)や国分18師団衛戍病院隣の収容所に移された。
(初代所長の種村弘道少佐の時から、ソーレ神父が週に1回収容所に通って俘虜たちの心を支えた)
1915年(大正4)6月、国分の衛戍病院新病舎跡(現久留米大学医療センター)に統合され、熊本の収容者全員と福岡収容所の収容者の一部を受け入れ、収容者1319名の全国一の人数を収容した。
外務省外交資料館の『俘虜名簿』では4715名:
この収容所から出された絵葉書:坂東コレクション蔵:久留米停車場通繁昌之景 久留米市今町廣重文会堂発行(久留米俘虜収容所、俘虜郵便の検閲印、大正5年=1916年12月4日の消印あり)・他に「近江瀬田の唐橋」、「明石人丸神社」の絵葉書もあり。
資料
チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会のサイト(H17・3 高知大 瀬戸先生の史料) このサイトに久留米収容所のページがあります
坂東コレクション:キャンプ坂東の非常に詳細な地図
高良山・御井町の旧家「御厨」からは多彩な人物が出ているが、その中の御厨豊という人は、第五高等学校に学び夏目漱石に教えを受け、師団で数学を教えていたが、ドイツ人捕虜が久留米に来たときに、五高で習い覚えたドイツ語で通訳をつとめたという。(御井町誌)
第一次大戦でドイツに対して宣戦布告をしたため、大正初めからドイツに留学していた於保乙彦(佐賀県多久市出身)は大正3年にドイツ軍の捕虜となったが、大正6年に帰国し、台北病院長や昭和2年台北帝国大学開校と共に医学部教授及び附属病院長として活躍された。
収容所がまだ存在している時期、1918年には太刀洗飛行場が完成し、次の戦争準備が進行しているのは、国や軍に先見の明があったと感心して良いのか?・・・
小郡の老松神社(人形注締めの取材に行き、境内に青島攻撃砲弾1個献納碑を発見)
荷物整理中に出てきたアルバムにあったもので、右側に「大正12年日独戦争凱旋祝賀(2月)」と記されています。大正9年の戦争終結から時間が経過していますが、久留米の人々にとってよほど印象深い出来事だったために、このようなスタイルで撮影されていたのかも知れません。
(大正12年頃の雰囲気を知る資料として)

home
ドイツ兵俘虜慰霊碑・説明(ドイツ語版)
俘虜と久留米の産業
井上満文学碑(正源寺)
http://kurumenmon.com/higasikokubu/germanfuryo_hi/germansireihi.html
第一次大戦に参加した日本は中国青島のドイツ要塞を攻略し、俘虜となった5000名近くが各地の収容所に分散収容された。「ドイツ兵俘虜」といっても親善訪問で日本に来る途中、開戦に巻き込まれ、青島でドイツ軍に合流したオーストリア・ハンガリーの巡洋艦「カイゼリン・エリーザベト」号の乗組員も含まれるほか、現在のドイツ、オーストリアの他、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、ユーゴ、北イタリア出身者が含まれている。
久留米は戦闘に携わった18師団司令部の所在地だったためか、久留米収容所はその中でも最も人数が多く、大正3年(1914)10月6日開始、大正9年(1920)3月12日閉鎖
*) 敷地:29,000㎡ 収容人数:1319人(最大時)坂東・習志野・青野原・似島の各収容所に比べて、久留米が一番狭かった。
11名の死者が久留米山川陸軍墓地に埋葬されたが、大戦終結後の1920年1月16日、土葬されていたコッホとパウリ―以外の9名の遺骨は火葬されていてドイツ側委員に引渡された。
「SCHWERT ENTWUNDEN DURCH SCHICKSALS MACHT GEFANGEN GEBUNDEN SANKT IHR ZUR NACHT」
(運命の力によって剣を奪われ、捕らえられ、拘束されて君らは夜の帳に沈んだ)
台座には
「ZUM GEDAECHTNNIS DEN KAMERADEN DIE FERN HEIMAT STARBEN」
(故郷遠く没した 戦友達を偲んで)
Koch(コッホ),Heinrich(?-1914): 海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。[鍛冶職人]。1914年9月28日ヴァルダーゼー高地で俘虜となったが、負傷していたため久留米衛戍病院に送られた。10月25日、重病になったコッホは、所長樫村弘道少佐、所員の山本茂中尉に「故国の母親によろしく伝えて欲しい」との遺言を残し同日、同病院で死亡。グラボウ(Grabow)中尉、ベスラー(Boe sler)少尉及び下士2名が病院に駆けつけた。
葬儀に際してはグラボウ中尉の別れの言葉、弔辞(樫村所長・通訳は山本中尉)、久留米市代表の弔辞、仏教の僧侶が線香を焚く。写真家達が葬儀の様子を撮影し、100人に及ぶ群衆が見つめていたという。ハンブルク出身。(久留米)
Emoan(エーモアン),Max(1887-1915): 第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。1914年12月14日、収容されていた熊本西光寺を脱柵した科で、憲兵留置所で重謹慎2日の処罰を受けた。1915年7月21日の晩に久留米で死亡、23日に久留米山川陸軍墓地に埋葬された。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)上部バイエルンのトロスベルク(Trossberg)出身。
Simon(ジーモン),Robert(?-1916): 第3海兵大隊第2中隊・伍長。1916年3月19日久留米で死亡。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)117頁には、ジーモンの葬儀の様子、写真4点が掲載されている。ザクセンのグリューン(Gru"n)出身。(熊本→久留米)
Boesler(ベスラー),Ernst(1880-1916): 第3海兵大隊第2中隊・後備陸軍歩兵少尉。1914年9月28日、浮山で日本軍に包囲され、退却を求めて協議を申し出るが武装解除され俘虜となる。グラーボウ(Grabow)中尉等60名が俘虜となった。10月9日、日本への俘虜第一陣として門司に到着し、久留米俘虜収容所に送られた。【『日獨戰史』 402頁等より】1916年4月18日、肺結核兼肋膜炎により久留米で死亡。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)116頁には、ベスラー少尉を送る葬列、6点の写真が掲載されている。ドイッチュアイラウ(Deutscheylau)出身。
Sanz(ザンツ),Josef(?-1916): 巡洋艦皇后エリーザベト乗員(オランダ・ハンガリー)日本へ親善訪問で来る途中、開戦に巻き込まれ、ドイツ軍に合流した・2等水兵。1916年4月21日久留米で死亡。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)117頁には、ザンツの葬儀の様子や墓標を写した写真3点が掲載されている。ボヘミアのニームブルク(Niemburg)出身。(熊本→久留米)
Schlund(シュルント),Alfred(?-1918): 海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等機関兵曹。 1918年3月13日久留米で死亡。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)118頁には、シュルントの葬儀の様子を写した写真が掲載されている。ツヴィッカウ郡のシュタインプライス(Steinpleis)出身。(福岡→久留米)
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Pouly(パオリー)Karl(1886-1918)第3海兵大隊第2中隊・軍曹。1886年3月9日、商人の子としてザールブリュッケンに生まれた。1914年9月28日、浮山周辺で日本軍に包囲され、グラーボウ中尉等60名が俘虜となったが、その折りパオリー軍曹は、部下11名とともに逃れた。1918年3月26日久留米で死亡。ザールブリュッケン出身。(熊本→久留米)
Werner(ヴェルナー),Alfred(?-1918): 第3海兵大隊機関銃隊・2等焚火兵。1918年5月8日久留米で死亡。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)119頁には、ヴェルナーの葬儀の様子等の写真が掲載されている。
シュレージエンのローンシュトッホ(Rohnstoch)出身。(熊本→久留米)
Kettgen(ケットゲン),Johann(?-1919): 第3海兵大隊機関銃隊・上等兵。1919年3月2日、久留米で死亡。
ラインラントのホムベルク(Homberg)出身。(熊本→久留米)
Po"nitz(ペーニッツ),Erich(?-1919): 第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1919年8月2日肺結核により久留米で死亡。西プロイセンのプロイスィッシュ=シュタルガルト(Proissisch-Stargard)出身。(熊本→久留米)
Bauer(バウアー),Josef(?-1919): 第3海兵大隊第6中隊・補充後備兵。(1919年11月7日久留米で死亡)
ドナウ河畔のヴェルト(W?rth)出身。(熊本→久留米)
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各兵士に関する項目、最後尾についての説明
(久留米):初めから久留米収容所に収容されていた
(熊本→久留米):熊本収容所→久留米収容所へ移送されたことを示す
第一次世界大戦に参戦した我が国は、中国青島のドイツの要塞を攻め落とし、多数のドイツ兵を俘虜とした。彼等を収容するため、大正3年(1914)10月から同9年(1920)3月まで、久留米に俘虜収容所が置かれたが、多い時には1319名を収容し、全国12ヵ所の収容所でも最大規模だった。
5年余の収容期間に戦場での傷がもとで2名、病気などで9名、合わせて11名が亡くなった。これらの死者の追悼のため、俘虜達は帰国に際し、この慰霊塔を建立した。
碑の正面には収容期間を示す西暦と剣が、両側面には死者の姓が記されている。
背面にはドイツ語で「運命の力により剣を奪われ、捕らわれの人となり黄泉の国に去った汝ら」、台座には「故郷はるか遠く逝った同志たちの思い出のために」と鎮魂の詩が刻まれている。
俘虜は長い抑留生活の中でも、音楽会・作品展示会・スポーツ大会などを催し、市民との交流を深め、近代の久留米の芸術・文化や市民生活に大きな影響を与えた。
この俘虜収容所のオーケストラは、大正5年(1916年)2月25日にベートーベンの「第8交響曲」を演奏した。同6年3月4日の「第5」、同7年10月16日の「第1」同8年3月26日の「第7」も日本初演。(すべて4楽章通し)。
大正8年(1919)12月3日、久留米高女から招待され、ベートーベンの交響曲「第9」を演奏した。(*関連資料:平成19年度の明善高等学校創立記念日(明善高等学校へリンク))
またドイツの進んだ科学技術は後に久留米の基幹産業たるゴム産業の技術革新に大きな貢献をしている。久留米の歴史にドイツ兵俘虜は大きな足跡を残している。
(資料:現地説明版・日本経済新聞 2003年(平成15年)6月23日(月曜日)文化面)
ドイツ兵捕虜の妻は、青島から夫を追って久留米の八軒屋付近に居住したという。
たまたま青島に寄港していた他国船の乗組員も捕虜になっていたという。
また、北野天満宮・善導寺境内・発心公園の桜、高良山(御井町広手・御手洗橋・高良大社正面階段・大社社頭)・筑後川(水浴)・神代端・宮の陣(梅)・久留米高女(迎賓館敷地内)での演奏会で写された写真なども残っているらしい。
1914年(大正3)11月7日ドイツ軍の降伏で出た大量の捕虜を収容するために東京、名古屋、大阪、姫路、松山、丸亀、福岡、熊本に俘虜収容所が開設された。
久留米でも京町梅林寺(書院、旦過寮)・大谷派久留米教務所(日吉小学校運動場東部分)・篠山町の久留米城二の丸跡にあった料亭香霞園(当時休業状態)が増設され、後に高良台演習廠舎(藤光町)や国分18師団衛戍病院隣の収容所に移された。
(初代所長の種村弘道少佐の時から、ソーレ神父が週に1回収容所に通って俘虜たちの心を支えた)
1915年(大正4)6月、国分の衛戍病院新病舎跡(現久留米大学医療センター)に統合され、熊本の収容者全員と福岡収容所の収容者の一部を受け入れ、収容者1319名の全国一の人数を収容した。
外務省外交資料館の『俘虜名簿』では4715名:
この収容所から出された絵葉書:坂東コレクション蔵:久留米停車場通繁昌之景 久留米市今町廣重文会堂発行(久留米俘虜収容所、俘虜郵便の検閲印、大正5年=1916年12月4日の消印あり)・他に「近江瀬田の唐橋」、「明石人丸神社」の絵葉書もあり。
資料
チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会のサイト(H17・3 高知大 瀬戸先生の史料) このサイトに久留米収容所のページがあります
坂東コレクション:キャンプ坂東の非常に詳細な地図
高良山・御井町の旧家「御厨」からは多彩な人物が出ているが、その中の御厨豊という人は、第五高等学校に学び夏目漱石に教えを受け、師団で数学を教えていたが、ドイツ人捕虜が久留米に来たときに、五高で習い覚えたドイツ語で通訳をつとめたという。(御井町誌)
第一次大戦でドイツに対して宣戦布告をしたため、大正初めからドイツに留学していた於保乙彦(佐賀県多久市出身)は大正3年にドイツ軍の捕虜となったが、大正6年に帰国し、台北病院長や昭和2年台北帝国大学開校と共に医学部教授及び附属病院長として活躍された。
収容所がまだ存在している時期、1918年には太刀洗飛行場が完成し、次の戦争準備が進行しているのは、国や軍に先見の明があったと感心して良いのか?・・・
小郡の老松神社(人形注締めの取材に行き、境内に青島攻撃砲弾1個献納碑を発見)
荷物整理中に出てきたアルバムにあったもので、右側に「大正12年日独戦争凱旋祝賀(2月)」と記されています。大正9年の戦争終結から時間が経過していますが、久留米の人々にとってよほど印象深い出来事だったために、このようなスタイルで撮影されていたのかも知れません。
(大正12年頃の雰囲気を知る資料として)


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柴澤コレクション展
『天然痘との闘いー九州の種痘』の刊行
種痘法の普及、小倉領吉雄医師
新刊紹介 『近世後期の対外政策と軍事・情報』
池田専助・森鴎外妻志げ・永松玄洋の三題噺。
佐賀医人伝 島田南嶺、島田完吾
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