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洋学

環境・産業・歴史教育を地域の世界遺産から考える高校生会議の開催事業(略称:世界遺産高校生会議)

2018年06月05日

 洋学 at 23:16  | Comments(0)
背景と目的
環境教育と世界遺産といえば自然世界遺産のふれあい体験学習などがあるが、身近ではない。2015年にユネスコ世界遺産として登録された明治日本産業遺産群は、8エリア23資産におよび、環境やモノづくり・歴史を考える格好の地域題材であり、登録条件として各構成資産の日常的保全活動が求められた。
 これらを背景として、環境・産業および歴史教育の実践力と保全活動を高めるための高校生会議を、明治日本産業遺産の起点であり、先進地である佐賀で開催することにした。特に幕末期佐賀のモノづくりの近代化からは環境汚染や環境問題が生じていない。これらを高校生会議で強調し、他地域との比較研究において、これからの社会づくりにおける世界遺産の保全活動と自然環境及び歴史を大切にする啓発活動をしたい。なお申請団体である幕末佐賀研究会は、2004年以来、佐賀のまち作りや世界遺産登録活動をすすめてきた。
事業内容
2018年8月18日・19日に佐賀大学において、4県の各高校生が、世界遺産の調査研究報告会議を開き、佐賀の世界遺産を視察し、今後の環境教育・産業教育・歴史教育と環境保全活動を考える。調査は、世界遺産の歴史的意義、モノヅクリ技術(西洋技術移転と在来技術の融合など)、今後の環境保全を主な視点とする。調査予定地は、長崎県立長崎東高等学校郷土史部が小菅修船場跡・三菱長崎造船所・端島炭鉱など。佐賀県立佐賀工業高等学校が多布施・三重津など、福岡大学付属大濠高等学校が三池炭鉱・三角西(旧)港など。福岡県立糸島高等学校が官営八幡製鉄所・遠賀川水源地ポンプなど。山口県立萩高等学校が萩反射炉・美須ケ鼻造船所跡・萩城下町など。佐賀県立佐賀工業高校は、砲身を削り込む水車の模型製作やミニチュアカノン砲模造にも挑戦し、当時のモノヅクリの技術にもせまる。広報はfacebookや新聞などを利用し、成果報告書を刊行し、図書館・高校などに配布して環境教育・産業教育・歴史教育に活用する。
【スケジュール】
※原則として2019年3月31日(平成30年度末)までに事業を完了してください。
2018年5月12日、実行委員会を開催、報告校5校(佐賀工業・萩・大濠・糸島・長崎東)決定。
2018年7月29日、実行委員会開催(佐賀)、広報は一般及び佐賀県下高校及び佐賀市内中学などへ。
2018年8月18日、高校生会議、於佐賀大学教養教育大講堂(350人収容)、一般及び高校生参加予定
2018年8月19日、高校生会議、エクスカーション、三重津海軍所跡、維新博等見学。
2018年10月30日、報告書原稿締切。
2019年 1月26日 報告書刊行、県内図書館・高校及び佐賀市内中学へ配布予定。
  


恩田緑蔭

2018年04月28日

 洋学 at 01:38  | Comments(0)
◆本日、信州から『市誌研究ながの』25号が届いた。長野市公文書館の刊行で「ふるさとのアーカイヴ」がテーマとなっている。長野市誌研究の発展から長野市公文書館がつくられ、こうした研究紀要が毎年出されているところに信州のアーカイヴの底力を感じる。
◆内容もとても懐かしい地名や人名がある。「佐久間象山と女流画家恩田緑蔭の接点」は興味深い。恩田緑蔭(1819~1874) は、松代城下町の1年を描いた「松代十二ヶ月絵巻」が有名だが、昆虫図などの写実にも優れた女性の画家である。
◆かって信濃毎日新聞につぎのような文章を書いたことがある。
女流画家恩田緑蔭
写真の昆虫図は、恩田ゆり(1819~1874)、画号を緑蔭という女流画家が描いた。松代藩士恩田民正の長女として生まれ、同藩の御用絵師山田島寅(1800~61)、青木雪卿(1804~1901)らから写実的な画業を学び、独身で生涯を画筆とともに過ごした。
緑蔭の残した「写生集壱」(全20枚)には、動物や鳥、魚、昆虫など、「写生集四」(全29枚)には、草花、木の葉などが写実的に描かれている。  
昆虫図に描かれたバッタやイナゴなどは後ろ足をぴんと張り、今にも刎ね上がろうとする臨場感があり、じっとしたホタルは動き出しやがて光を放って空に舞った。実に写生の完成度が高い。
卓越した写実的描写力は、師らが写実画の大家円山応挙(1733~1795)派や四条派の写実的絵画の流れをくんでいたことと無縁ではない。応挙の「禽虫之図」(模写)と緑蔭の昆虫図には、写生における対象を正確にみつめる観察眼に近縁性を感じ取ることができる。
蘭学者、画家の渡辺崋山(かざん)(1793~1841)の友人で画家椿椿山(ちんざん)(1801~54)に信濃関連門人が8人おり、1851(嘉永4)年)に入門した信州追分宿脇本陣の小川助右衛門妻で画号松琴という女流画家もいた。作品は不詳。
19世紀前半以降の文化は、民衆の手による民衆相手の文化が多様に広く展開していったのであり、絵画における写実の風も、信濃各地に、かつ女性の教養にも及んでいたのである。  (青木歳幸)
◆恩田緑蔭の作品は、かって松代の真田宝物館の近くのそば屋日暮庵にかなり展示してあった。今もあるだろうか。
◆信州からの『市誌研究ながの』を手にして、『徒然草』の一節を思い出した。
ひとり灯(ともしび)のもとに文(ふみ)をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。(『徒然草』第十三段)、一人で灯の下で書物を広げて、会うことのできない昔の人を友とすることは、とても慰められることである。
◆本というのは、行ったことのないところで会ったことのない人が読んで著者と共感しあえる、これが醍醐味であり、こよなう慰むる技である。
  


鳴滝紀要28号

2018年04月24日

 洋学 at 12:29  | Comments(0)
◆『鳴滝紀要』28号が出た。内容が大変充実している。
論文は宮坂正英「ミュンヘン五大陸博物館所蔵「鳴滝の家形模型」に関するシーボルト自筆の記述について、大島明秀「志筑忠雄「三種諸格」の資料的研究」、堅田智子「男爵アレクサンダー・シーボルト「古き日本に関する回想第2部ー英国の旗の下にー1862年~1870年ー」(1)、野藤妙「長崎東濱町井手禎蔵の日記と川原慶賀」、織田毅「日高凉台研究序説ー主に牛痘法普及における業績についてー」、織田毅「近世後期長崎における日雇の一側面」、織田毅「<オランダ通詞研究ノートⅣ>オランダ通詞西家史料について」などが掲載されている。
◆史料紹介は、伊東救庵「江戸御尋人高野長英私宅江立寄申一件」、石井信義「明治7年日記」(一)である。
◆論文のうち、とくに、織田毅「日高凉台研究序説ー主に牛痘法普及における業績についてー」は、シーボルト記念館に寄贈された日高凉台関係文書のうち、『種痘新書』(原書名は『牛痘新則』らしい)の草稿本と清書本の二種類について、検討した。
◆清書本は草稿本の修正が忠実に反映され、「文政乙酉夏六月訳於長嵜客舎 種痘新書 終」とあり、文政八年の成立とされる。同書には草場佩川の跋文と凉台の子凉言惟民の後序があり、後序には、愚父(日高凉台)が長崎にいたとき、シーボルトが三児に種痘したが感ぜず、惜しいことをしたこと、文政8年に草場佩川の跋文を得たことが記されており、その後序を記した時期が、「嘉永庚戌冬十二月」で  


徴古館の研究助成報告8号

2018年04月05日

 洋学 at 09:29  | Comments(0)
◆徴古館の『公益財団法人鍋島報效会研究助成研究報告書』第8号をご恵与いただいた。第15回と第16回の研究助成報告をまとめたもので、A4版で282頁の大部なものである。
◆各論考のうち、私は相川晶彦「佐賀県における農村舞台の研究について」に強い関心をもった。
◆農村舞台の研究は、松崎茂、角田一郎らによって全国的な研究がなされ、全国で1774棟の常設舞台が確認された。
◆都道府県別にみると、徳島が239、兵庫234、長野204、岐阜181など、関西から中部地方に圧倒的に多い。江戸時代に阿波人形、淡路人形が東漸し、信州伊那谷などでさかんに上演され、明治期にもさらにその伝統が続いたからである。
◆農村舞台は、祭りにかこつけて増加する遊び日(休日)とならんで江戸時代農民の自治的活動の象徴的存在でもあった。
◆では九州ではどうかというと、佐賀52、大分38、熊本30、福岡14、宮崎1、長崎0、鹿児島0とされた。なんと九州のなかで佐賀が最も多いのである。現存舞台の多くは明治以降、とくに大正期に建築されたものが多いようである。が、江戸後期と判明するものもかなりあり、地方知行制でがっちりと武士による農村支配が貫徹していた佐賀藩領においても、農民の娯楽はしっかりと根付き。広がっていたことがうかがえる。
◆一方で、長崎、鹿児島、宮崎の農民らへの農民歌舞伎や人形浄瑠璃などの娯楽はまったく認められなかったのかどうか、彼らはどのように娯楽を得ていたのかが気になるところである。「西郷どん」をみていると相撲がその一つであったかもしれない。
◆今、働き方改革が叫ばれている。労働時間の短縮、休日の増加ということは、一面では消費拡大という側面もあるだろうが、近世から近代・現代へとつづく、国家による娯楽統制及び休日支配と、庶民の娯楽志向及び労働運動との対抗関係とを二重うつしに照射して考えていく必要もあるのだろうと思うのである。
◆本報告は、佐賀に残る農村舞台を悉皆調査した貴重なお仕事であり、単行本で紹介されると、あらたな佐賀の農村像を見出すことができるだろう。

  


佐賀県人名事典、電子版

2018年03月31日

 洋学 at 15:48  | Comments(0)
◆佐賀城本丸歴史館の古川さんから「佐賀県人名事典」の電子書籍版の案内が届きました。
◆佐賀城本丸歴史館のホームページをクリックして、ずーっと下のほうに古文書で佐賀というバナーがあるのでそこをクリックすると、佐賀県人名辞典のウェブサイトにとびます。そこの右の部分をクリックすると、電子版にはいることができるようです。
◆まだ検索機能が十分ではなく、クリックすることで、頁がめくられて、次の頁に移ることができます。本日3月30日から公開とのこと。まだまだ掲載されていない人名がたくさんあり、今後、年度毎に、人名を追加していき、最終的には1500名以上の人名検索ができることになり、集大成的なものになります。
◆ここまでくるのに、担当者の苦労は並大抵のものではありませんでした。そのことをよく知っているので、担当者の皆さんの御苦労をねぎらいたいと思います。そうした思いもこめて、クリックしてみてくださればと思います。

  


栃木の種痘史料、北城諒斎と鍋島幹

2018年03月10日

 洋学 at 00:01  | Comments(0)
大田原の種痘医北城諒斎は、
明治七年二月に大田原種痘所鑑定方を命じられている。また、翌年には栃木県神痘鑑定員に任じられている。。諒斎は大田原種痘所診察鑑定方という肩書きでもって次の建言書を明治九年二月に栃木県令鍋島幹宛てに提出している。
    建言書
 大田原種痘所診察鑑定方北城諒斎、謹ンデ建言ス。僕奉務、爾来第三大区、各小
区ノ正副戸長及ビ用係リニ協力数カシテ、区内人民ノ子弟ヲ悉ク種痘所ニ入レ、
今後天然痘ノ患ナカラシメント欲スト錐モ、該区ノ如キ下野ノ北隅ニ位シ、多ク
ハ僻郷寒村ニシテ文化猶未ダ洽カラズ。人智ノ開クルモ亦夕随テ遅ク、人民多ク
ハ固陋頑愚ニシテ、種痘ノ良法タルヲ覚ラズ。□リニ旧習二拘泥シテ、種痘スル
ヲ欲セザル者十ニ八九コレアリ。毎歳種痘本日二到レバ、或ハ病ト称或ハ不在
ヲ告ゲ、甚シキニ至テハ、子弟ヲ負テ山林ニ避クル者アルニ至ル。其頑愚実ニ
憫ムベシト錐モ、之ヲ諭スニ言辞ノ能ク及ブ所二非ザルナリ。茲ニ於テ僕熟考ス
ルニ、之ヲ処スルノ法ハ、英国ニテ不種痘ノ者ハ罰金ヲ課スルノ法ニ倣ヒ、不種
痘罰金ノ命令ヲ下シ賜ハバ、仮令頑愚ノ民卜錐モ、庶幾ハ少シク悔悟ノ情ヲ発ス
ルニ至ラン。猶命ヲ奉ゼザル者アラバ、法こ照シ罰金ヲ納メシメ、以テ之ヲ懲
シ、且此ノ金ヲ以テ区内貧民ノ種痘費こ充テントス。此ノ如クニシテ後年始テ区
内ノ子弟こ不種痘ノ者無キヲ期スベシ。コレ僕ガ職務上二於テ尽クサントスルノ
衷情ナリ。近ゴロ聴ク、崎陽二天然痘ノ流行アリト。果シテ然ラバ我県下モ亦コ
レヲ未然ノ今日二防ガザレバ、後日天然痘ノ惨毒見ルこ忍ビザルモノアラント
ス。コレ僕ガ義務上二於テ黙止スル能ハザル所ナリ。幸二明諒采択ヲ賜ハバ、区
内人民子弟ノ幸福何ヲ以テ之二加フル者アラン。頓首百拝。

九年二月十二日              北城諒斎
 栃木県令鍋島幹殿
(『栃木メディカルヒストリー』146~147頁)
種痘の効果をなお信じない人々がいて、ひどいのは子どもを連れて山へ
逃げ込むものもいる。種痘を実施するには、イギリスの例にならって
未種痘児には罰金を科すことが必要であるという建言書をだした。
そのときの県令が鍋島幹である。
鍋島幹1844-1913は、佐賀藩士で初名:直幹1868 真岡知県事1869 日光県知事1871-1880 栃木県令1881 元老院議官1886-1889 青森県知事1889-1896 広島県知事1895-1913 男爵1896-1913 貴族院議員  


『とちぎメディカルヒストリー』

2018年02月20日

 洋学 at 09:27  | Comments(0)
◆『とちぎメディカルヒストリー』(獨協出版会、2013年)を読んだ。本書は、獨協医科大学で編集した栃木県初の医療史。Ⅰ医療編の論考は、日野原正「栃木県の民間療法」、柏村祐司「医療にまつわる信仰」、菊池卓「板東の大学と田代三喜・曲直瀬道三」、中野正人「県内初の西洋医斎藤玄昌とは」、崎石道治「壬生町・石崎家の医療史」、大沼美雄「種痘医北城諒斎と種痘医磯良三」、菊池卓「種痘の普及と足利地方」、岡一雄「感染症と闘った医師たち」、中野英男「「渡辺清絵日記」に見る医療・衛生」、本田幹彦「江戸幕府日光社参医療」、内山謙治「栃木町に医学校の基礎を築いた松岡勇記」、大嶽浩良「栃木県のコレラ騒動」、菊池卓「栃木県足利病院の設立と閉鎖」、寺野彰「足尾銅山鉱毒事件と田中正造」.菊池卓「整形外科の父・田代義徳」、Ⅱ看護編は、加藤光寶「壬生養生局おける看護人の発祥と当時の看護」、加藤光寶「近代看護の先駆者黒羽藩大関和」、Ⅲ薬剤編は。宇津義行「宇津権右衛門と秘薬宇津救命丸」、松木宏道「壬生藩士太田信義と太田胃散」、竹末広美「日光御種人参」、Ⅳ歯科編「栃木県歯科事情」など論考のほか、近代医学、栃木県の医療行政、医師会他栃、県看護協会、栃木県医療史年表などが手際よくまとめられている。
 疱瘡や種痘について興味深い資料も紹介されている。柏村祐司氏の記すところによれば、宇都宮市岩原の旧家に江戸時代に書かれた「疱瘡神五人組相渡申候誤証文之事」が保管されているという。長禄三年(996)に若狭国小浜の紺屋六左衛門へ宛てて、出したとされるいわゆる疱瘡神の詫び証文といわれるもので、関東地方で90点確認され、栃木県内でも10数枚が確認されているという。これはおそらく久野俊彦「呪符の伝播ー栃木県の疱瘡神の詫び証文」(大島建彦編『民俗のかたちとこころ』岩田書院、2002所収)や大島建彦「若狭の疫神祭祀」(『西郊民俗』138号、1992年)、大島建彦『疫神とその周辺』(岩崎美術社、1985年)などの研究を踏まえてのものと思われる。詫び証文の全国的流布を追うことにより、民衆の疱瘡神信仰の一つの類型が浮かび上がるかもしれない。
 中野正人氏は、壬生藩医で蘭方医斎藤玄昌の壬生藩への種痘についても紹介している。「藩医斎藤玄昌によって江戸から痘苗が壬生城下にもたらされ」とあるので、伊東玄朴由来の痘苗がはやくも壬生城下にもたらされたものとみられる。嘉永三年二月から領内への種痘対象児童の調査が開始され、四月から「藩医匂坂梅俊の立ち会いのもとで、初回から第三回までの三段階の構成で八日毎に種痘を実施することが藩当局により定められた。初回は種痘、第二回(四日目)は診察・鑑定、第三回(八日目)は発痘の具合を診察し、再種の要不要を確かめる。また、その痘膿を再種して、別の小児に種痘をする」という具体的な種痘の実施方法が紹介されている。
 藩主の子国之助らに種痘を実施したのが、嘉永二年段階なのかを知りたいことと、「八日目」の診察というのは、当時のわが国の数え方で実質は現在の七日目にあたるものとみられる。
 中野氏は、嘉永四年の藩医五十嵐順智の『日記』に、「此小児牛痘種七日目にて是より引候也、手塚治郎助、関和文斉(斎カ)右両人にて植候也」とあるのは、「種痘接種が七日後も善感しないので、順智の指導により両名の医師が即日再種をしていることを意味する」としているが。再種ではなく、七日目に小児から「引候(引痘して)」、手塚治郎助、関和文「斉」の両名医師が、他の子どもらに種痘をしたと解釈したい。
 山川領下片田村の場合をみると、万延二年正月二十日に、名主宅を会所として藩当局から藩医がきて、二歳から四歳までの八人の男女に両腕に五箇所接種し、八日目に藩から斎藤玄昌が派遣されて善感したかどうかの検査を行ったとあり、二月十四日までにすべての対象者が種痘済みとなったとある。
 本論文によって、嘉永三年段階から、壬生藩領では、藩当局の命令により、名主宅などへ小児を集めて、藩医が最初に種痘し、在村医の手塚や関が補助医師として、村内へ種痘を広めていく体制が組織的に行われていたことがわかる。佐賀藩と同様の組織的な種痘実施の仕組みが壬生藩でも嘉永三年段階にとりいれられていた事例として、全国的にも早い取り組みとして非常に興味深い。
 大沼美雄氏は、大田原出身の北城諒斎の、弘化二年の江戸遊学と伊東玄朴門人の烏山藩医伊東玄民への入門、嘉永二年の江戸再遊での佐倉藩医鏑木仙安への入門、すくなくとも嘉永四年からの大田原藩での種痘、北城諒斎の明治四年「種痘三祖小伝」、明治五年以後の種痘医としての活動などを紹介している。諒斎のあげる種痘三祖とは、英国のジェンナー、清の邱浩川、桑田立斎であるので、佐賀藩由来の痘苗で直接の江戸の種痘師匠は桑田立斎かもしれない。
 大沼氏は、黒羽藩出身の磯良三が明治四年五月、大学東校から種痘術の免許を得たことも紹介している。
 菊池卓氏は、足利の近藤南泰なる医師が、弘化三年(1846)に『種痘編』を書き上げていることを紹介し、川島元徳なる医師が江戸で修業後、羽刈村で開業し、種痘活動を行い、明治九年には種痘医に任命されたこと、羽刈村の名主家に生まれた須藤玄佐は、壬生藩医斎藤玄正(ママ)に入門し、種痘術を学び実施したこと、明治四年一月三十一日に自宅を羽刈村種痘所とすることを認可されたこと、足利藩医の早川俊堂が、すくなくとも明治七年段階には足利種痘所の一員として種痘を実施していたこと、その門人らが足利地方の地域医療の近代化を推進したことなどを紹介している。
 栃木の近世から近代に関わる医療史について、極めて実証的にまとめられ、他書の範となる書といえよう。  


大島明秀『細川侯五代逸話集』

2018年01月23日

 洋学 at 15:00  | Comments(0)
◆新刊紹介
大島明秀『細川侯五代逸話集』(熊日新書、2018年1月24日刊、1000円)が出た。筆者が熊本県立大学で日本史を教えているなかでの題材「随聞録」を読み解いた史料集でもあり解題集でもある。
◆「随門録」とは、細川家祖丹後国主幽斎に始まり、小倉藩主忠興、初代熊本藩主忠利、光尚、綱利の五代にわたる全55話に及ぶ逸話集で近世後期に編さんしたものであり、史実と逸話が入り交じっている。
◆本書にある逸話を読むと、細川忠興はやたら家臣らの首をはねる人物であった。ガラシャ夫人(明智光秀の三女で熱心なキリシタン)が食事のとき、その椀のなかに一本の髪の毛が入っていた。ガラシャは夫の気性を知っていたので、そっと髪の毛をとって中椀に入れて蓋をされた。忠興はそれをみていて、お椀の蓋をとり、髪の毛を確認して、料理人の首をはね、ガラシャ夫人の膝の上においた。すると、ガラシャ夫人は一言も発せられず、身動きもせず、終日そのままの姿でじっとしていたので、忠興もすまぬことをしたと思い、声をかけるとようやくガラシャ夫人も、お膝の首を取り除かれたとのことである。
◆このように、第一章では、興味深い内容をもつこの逸話集55話を現代語訳し、解説をくわえて専門性を持ちながらも可能な限り一般に読みやすいものに心がけたという。
◆第二章は、解題編とし、諸本の異同や特徴を踏まえ、近世後期に編さんされた細川家史「綿考輯録」との影響関係について検討し、歴史的事実と逸話との関係性についても解説している。筆者の『鎖国という言説』で、『 鎖国論』の伝存する写本94点を究明したと同様の、史料渉猟の徹底ぶりが示され、安心して読むことができる。
◆第三章は、研究資料として利用できるように、すでに複数の写本で校合してある熊本県立図書館上妻文庫本を底本として、京都大学附属図書館谷村文庫本と公益財団法人永青文庫本を付き合わせて、校訂版を作成してある。
◆55話の逸話を現代語で読むだけでも、当時の熊本藩主の生き様を小説のように楽しめるのだが、第1章を読み終えた読者が、第二章解題と第三章校注へと進むことで、歴史資料にとりくみ、新たな発見をするという歴史研究の手法の新たな旅へ知らず知らずのうちに誘われるようなしかけが、註や参考文献で提示されている。よく練れた歴史探究書となった。
◆筆者の関心でいえば命をどのように捉えていたかの問題がある、たとえば細川忠興は参勤交代時に足軽ともめた問屋と町人、箱根の関所の番人、髪の毛を入れた料理人などいとも簡単に首をはねており、おとがめもなかった。やはり塚本学『生きることの近世史』(平凡社、2001年)で明らかになったように、戦国の遺風の強い時期は、家臣・従者の命は主人のものであったことがうかがえる。  


史料・九州の種痘・・科研費研究報告書

2018年01月22日

 洋学 at 13:58  | Comments(0)
「平成27~29年度科学研究費補助金(研究種目 基盤研究(C)研究課題番号15K02867)
「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」報告書として
『史料・九州の種痘』も、印刷所に入稿しました。3月末の刊行を予定しております。
科研費に関わった皆様のご協力に感謝申し上げます。
科研費報告書の刊行物は、現在は、求められていないのですが、3年間の調査で
貴重な種痘関係史料を発掘してきました。
商業印刷では、公刊できない史料集ですので、科研費によって印刷し、多くの方の目に触れることで
研究の進展や史料の保存をはかることができればと考えております。
一 はじめに
(1)研究の学術的背景・・・・・・・・・・・・・青木歳幸 
二 史料翻刻
(1)佐賀藩支藩多久領種痘史料・・・青木歳幸・保利亜夏里
(2)野中家所蔵牛痘種法・・・・・・・・・   青木歳幸
(3)村井琴山「痘瘡問答」(校訂版)・・・・・・・・大島明秀
(4)武谷祐之『牛痘告論』・・・・・・・・・・・・鷲﨑有紀
(5)中津藩辛島医家旧蔵の﹁種痘新説」・・・ W・ミヒェル
(6)黒江家種痘資料・・・・・・・・・・・・・・・今城正宏
(7)若山健海種痘資料(表)・・・・・・・・・・・海原亮・・
三 おわりに
(1)研究の成果報告・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸

成果報告の一部を公開しておきます。
研究実績
 三年間の種痘伝来科研において、多くの成果を得た。なかでも嘉永二年(一八四八)に伝来した牛痘接種は、佐賀藩では八月から引痘方が設置され、安政五年(一八五八)に設立された好生館で全額藩費による組織的な種痘活動が行われたこと、萩藩では九月二一日に佐賀藩から分苗されたこと、大村藩は、七月二四日に痘苗を得て八月一日から藩主導で実施し、種痘苗保存確保のために「牛痘種子継料」を全村から徴収していたこと、中津藩では民間医辛島正庵らが長崎から痘苗を得て、種痘普及のために文久元年(一八六一)医学館を創設したこと、西屋形村の屋形養民は、中津の医学館から痘苗を得て村民への種痘を開始したこと、福岡藩領では郡医が早くに種痘活動を行い、武谷祐之は郡医から痘漿を分けてもらい、嘉永二年の末から種痘を始めたこと、小倉藩では安政五年(一八五八)に牛痘を牛に種えてリフレッシュさせる再帰牛痘法を安政五年(一八五八)段階で郡医らが試みていたこと、天草では、上津深江村字太田に種痘山という種痘実施施設を創始し、大村藩の古田山種痘所での種痘心得のある医正を招き、人痘法での接種を続けていたが牛痘伝来後は牛痘による接種に転換したこと、宮崎では、若山牧水の祖父若山健海が嘉永三年ころから実施したこと、薩摩では前田杏斎が嘉永二年に長崎から牛痘を得て実施、その門人の黒江絅介は高岡郷(現宮崎市)で嘉永三年に実施したこと、熊本藩では、高橋春圃と寺倉秋堤が長崎で牛痘を学び種痘を実施し、明治三年の熊本医学校が設立には、寺倉秋堤に種痘術を教えた吉雄圭斎が招かれ、種痘普及を契機とする地域医療の近代化が始まったことなど、新しい事実が判明した。この基盤研究において、九州諸藩における種痘普及により、洋式医学校の設立など地域医療の近代化をめぐる在村蘭方医の人的ネットワークが主要な役割を果たしていた実態が判明した。
今後の方策
 今後は、これらの研究成果をもとに、九州・長崎から、全国諸地域の町や村段階へ種痘がどのように伝来したのか、地域医療の近代化がどのように進められたか、地域民衆や漢方医らの医療観がどのように変化したか、地域の行政にとって流行病に対する予防がどのように整備されていったかなどを、各地に伝来する種痘史料の発掘と研究調査を通じて、詳細に実証的に研究することが、今後の医学史研究にとって全国的な種痘研究を目指す。



  


天然痘との闘いー九州の種痘

2018年01月22日

 洋学 at 13:45  | Comments(0)
『天然痘との闘いー九州の種痘』

研究分担者・研究協力者のご協力のおかげで、無事、岩田書院へ3年間の研究成果として論考集を、入稿できました。
今春の5月ごろには岩田書院から刊行予定です。

わが国に伝来した牛痘とはどのようなものであったか、

長崎に伝来して、九州各地にどのようにもたらされ、医師と行政(藩・幕府)と民衆の意識をどのように変えていったのか

地域医療の近代化にどのようにかかわったのか

などを、九州各地の種痘の実例から明らかにし、全国展開への見通しもった書物になります。

あらたな史料発掘もたくさんあり、医学史のみならず、地方史、文化史などにも必ず役にたつ本となるでしょう。

なお、この科研チームは、あらたな段階への研究、すなわち、種痘の全国展開についても、研究を展開すべく、30年度以後の科研費申請も行っております。

1 論考集「天然痘との闘いー九州の種痘」

1はじめにー九州の種痘概要・・・・・・・青木歳幸 (10頁)

2天然痘について・・・・・・・・・・・・・・・・・相川正臣10頁

3ヨーロッパ人が観た日本における天然痘・・・W・ミヒェル 15頁

4人痘法の伝播 ・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸   17頁 

5牛痘伝来前史・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸    9頁

6牛痘伝来再考     ・・・・・・・・・・青木歳幸   20頁

7長崎の種痘・・・・・・・・・・・・・・・・相川正臣   10頁

8大村藩の種痘・・・・・・・・・・・・・・・・山内勇輝・・・18頁

9佐賀の疱瘡神   ・・・・・・・・・・・・金子信二   10頁

10佐賀藩の種痘・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸 28頁

11多久領の種痘・・・・・・・・・・・・青木歳幸・保利亜夏里  23頁

12長州藩の医学館と種痘・・・・・・・・・・・小川亜弥子・・ 22頁

13小倉藩領の種痘・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸・・17頁

14武谷祐之と福岡藩における牛痘の導入・・・・・W.ミヒェル・14頁

15久留米藩の医学・・・         吉田洋一・・・17頁

16中津藩における天然痘との闘い・・・・・・W・ミヒェル 31頁

17熊本藩の治痘           ・・・・大島明秀・・13頁  

18天草の種痘・・・・・・・・・・・・・・・/青木歳幸・・8頁(?)

19若山健海と宮崎の種痘・・・・・・・・・・ 海原 亮・・14頁

20薩摩の種痘・・・・・・・・・・・・・・田村省三・・・18頁

21黒江家文書にみる種痘・・・・・・・・・今城正宏(宮崎市教委)20頁