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洋学

浜田県下種痘

2019年09月25日

 洋学 at 08:59  | Comments(0)
明治初年の濵田県管下石見国邇摩郡の種痘願が出ていた。
以書付願上候事
当節御村方種痘児幾人有之候哉
種続之為、近日廻村仕度、  


『鳴滝紀要』29号

2019年04月06日

 洋学 at 00:00  | Comments(0)
『鳴滝紀要』29号がでた。大島明秀「泉屋家旧蔵「オランダ語文法書」と志筑忠雄「助詞考」、堅田智子「男爵アレクサンダー・フォン・シーボルト「古き日本に関する回想 第2部ー英国の旗の下に 1862年~1870年」(2)、アーフケ・ファン・エーヴァイク「1830年12月、帰国したシーボルトへ其扇が送った最初の手紙」、史料紹介藤本健太郎「伊東昇迪「嵜陽日簿」翻刻及び註解」、特別展報告織田毅「高島秋帆の周辺ー系譜と晩年の活動を中心に」などの論考や史料紹介を含む。
なかでも今後の洋学史研究に貢献するだろうのが、伊東昇迪の『嵜陽
日簿』である。文政9年から文政11年2月まで、長崎でシーボルトに師事したため、同期間のシーボルトの医療活動や、門人の動向がよくわかる。  


新刊紹介『医学教育の歴史 古今と東西』

2019年03月19日

 洋学 at 11:48  | Comments(0) | 医学史 | 科学史 | 漢方医学 | 洋学 | 日本史 | 外科学 | 種痘
◆坂井建雄編『医学教育の歴史‐古今と東西』(法政大学出版局、2019年3月20日、572頁プラス13頁、6400円プラス税)である。
◆第Ⅰ部は西洋の医学教育で、第1章坂井達雄「ヨーロッパの医学教育史<1>十八世紀以前の西洋伝統医学教育」(5~54頁)、同第2章「ヨーロッパの医学教育<2>、十九世紀以後の西洋近代医学の成立と特徴(55~140頁)の2大論文に続いて、第3章永島剛「近代ロンドンの病院医学校と医師資格制度 セント・トマス病院医学校を中心として」(141~178頁)が、ヨーロッパ医学史を展望している。
◆第Ⅱ部が日本近世の医学教育で、第4章町泉寿郎「江戸時代の医学教育<1> 瀬戸内地方の事例を中心に」(179~216頁)、海原亮「江戸時代の教育<2> 米沢藩の事例から」(217~258頁)。青木歳幸「江戸時代の医学教育<3> 佐賀藩医学教育史」(259~300頁)と近世の医学教育と地域の近代医学教育への接点を拠点的に描いた。
◆第Ⅲ章日本近現代の教育では、第7章坂井建雄「近現代の医学教育の概観 明治以降の医師養成制度と医学校の変遷」(303~318頁)、第8章 近現代の医学教育の諸相<1>相川忠臣、ハルメンボイケルス「十九世紀のオランダ語基礎医学教科書と蘭人教師たちの影響」(319~392頁)、澤井直「近現代の医学教育の諸相<2> 明治・大正・昭和初期の医師資格制度と医学教育機関’(393~434頁)、第10章逢見憲一「臨床医学教育における医師と医学の原像と執拗低音、「ドイツ医学」と「アメリカ医学」の変容に関する一試論」(354~482頁)、渡部幹夫「臨床医学教育と疾病構造の変化(483~530頁)、勝井恵子「昭和期における医療倫理教育」(531~572頁)と続く。
◆本書のカバーでの宣伝文句は「西洋と日本医学の知はどう継承されてきたか」、医師養成と知識継承の歴史、初の全体像」とある。じつは我が国医学教育の歴史は、山崎佐氏の『各藩医学教育の展望』以来、現在まで約60年の長きにわたって総括的に論じた書籍はでていない。本書がその大きな基本書となるだろうことを確信している。
◆価格的にも570頁もの書籍を、出版事情の厳しいなかで、6400円という価格で出版したという。驚きである。3月26日ごろには大手書店の店頭にならぶとのこと、多くの関心ある人に手に取ってもらって、また図書館などでも購入してほしいと思う。  


京都の名医吉益東洞の佐賀門人

2019年01月31日

 洋学 at 17:46  | Comments(1)

                                青木歳幸
 山脇東洋と吉益東洞
 19世紀の中頃から、京都で漢方医学を革新する一人の医師があらわれた。名を吉益東洞という。安芸国(広島県)の出身で、京都にでて、天皇家侍医の山脇東洋の門人となった。山脇東洋は、宝暦4年(1754)に我が国で初めて日本人による人体解剖を実施して、5年後に『蔵志』という解剖書を著した人物である。
 山脇東洋の医説を発展させたのが、吉益東洞だった。東洞は30歳のころ、万病の原因は毒にありとする万病一毒説を唱え、毒には毒(強い薬)をもって制するとした。この理論は、毒を病原菌と考えると近代医学に通じ、漢方医学を一新させるもので、門人が全国から集まった。
 吉益東洞のあとは、吉益南涯、吉益北洲、吉益復軒と吉益塾は続いた。
吉益家の門人録
 吉益家の門人録が『通刺記』で、多久出身の鶴田冲元逸が当初編纂しはじめ、鶴田元逸が宝暦6年になくなってからは、吉益家で代々、書き継いだものである。この門人録については町泉寿郎氏の詳細な研究がある。町泉寿郎「吉益家門人録(一)~(四)」(『日本医史学雑誌』47巻1号・2号・4号、48巻2号所収)は、三種の吉益家の門人録を校合し、重複を除いた吉益家門人は、東洞門544人、南涯門1375人、北洲門677人、復軒門361人、計2957人と集計した。
吉益家門人録にみる肥前門人
 その翻刻から、肥前(佐賀県域部分)出身門人を以下のように抄出できた。番号は町氏が付けた整理番号。( )内は入門年。
 まず「東洞先生 宝暦元年ヨリ安永二年ニ至ル」門人録には、
(宝暦八年以前)
 17鶴田 冲 字元逸 西肥久多(多久の誤記))佐嘉人
 50西玄碩西肥多久佐嘉人、とあり、吉益東洞門人は、鶴田冲と西岡春益の2人が記されている。
 次に東洞の子吉益南涯の「南涯先生 安永三年ヨリ文化十年ニ至ル」門人録には、
(寛政四年)225・165富永隆宣 肥州大曲之産
      633・631岡部尚達 肥前之産 自謁七月十八日
(文化六年)1232×松隈甫庵 肥前佐賀侯医官
      1247西岡俊益肥前鍋島/
(文化七年)1291・×山﨑松亭肥州佐賀侯医官の5人が見える。
 南涯のあとを継いだ吉益北洲の「(北洲先生)従文化十年 至文政十二年」門人録には
(文化十五年)128 野口元順 肥前佐嘉今宿之人 木村元雄招介
(文政七年)270 中村幸庵 肥前藤津郡塚崎之人 高倉三条下ル鎌田喜一郎招介(文政八年)302斎藤寛水 肥前三根郡六田村之人 浅川良節招介
(天保四年)522佐久間尚平 肥前唐津之人」の4人が記されている。
 北洲のあとを継いだ復軒門人には、
(弘化二年)22副島琢斉((ママ)) 肥州佐嘉 三月九日
(嘉永四年)大須賀見栄 肥州佐嘉藩中 中村主殿招介 三月十五日
(安政二年)173宮田道英 肥前唐津松浦郡玉島之人 年齢廿三 二村慶助招介 正月十二日
(安政二年)180楢崎浚明 肥前国松浦郡 年齢二十八 二村周斎招介 三月二十八日」と4人の門人が記載されている。以上15人の肥前出身の門人のなかで、東洞の医説をもっともよく理解し広めた一人が多久出身の鶴田冲元逸である。西岡春益は佐賀藩医で施薬方として活躍し、野中烏犀圓の製薬にあたっている。
鶴田元逸の系図
 門人帳の17の鶴田元逸が、『通刺記』を編纂し始めた医師鶴田冲で、多久出身であった。多久家家臣鶴田九郎太夫忠の三男として享保12年(1727)に、多久に生まれた。冲、元偲ともいう。
 『多久諸家系図巻之四』(多久市郷土資料館蔵)鶴田家系図』(多久市郷土資料館蔵)によれば、鶴田家は長兄も次兄も早世したため、一族の冲が跡を継いだ。
 冲 元偲 学醫、族人寉田九郎太夫忠三男、宝暦六年子十月十七日卒、法名鶴林道仙、妻早田八郎右衛門元女、文化四年卯四月四日卒、法名蕙室禎芳、墓上々図

 冲は、元逸と改名して医を志し、京都の古方派医師吉益東洞に入門した。
 鶴田元逸は入門後、東洞の医説をまとめるべく『医断』を編集しはじめた。延享4年(1747)に序文を書き、編集途中の宝暦6年(1756)10月16日に30歳の若さで亡くなったため、同門の京都の医師である中西深斎が虚実編を補足して、宝暦9年(1759)に刊行した。
『医断』と天命論争 
 『医断』には、長門出身儒医滝鶴台の序文のほか、師の吉益東洞の宝暦2年の序文があるので、東洞の医説を正しく述べたものといえる。 
内容は、司命、死生、元気、脈候、腹候、臓腑、経絡、鍼灸、栄衛、陰陽、五行、運気、薬能、薬産、古方、名方、仲景書、病因、治方、産褥、初誕、痘診など三七編からなり、東洞の医説を明快に紹介している。
 『医断』の名を高めたのは、東洞の天命説であった。東洞は、「死生は命なり、天より之を作す。医も之を救うこと能わず」(『医断』死生編)とし、病気は医治の対象であるが、患者の生命は天命であって、医のあずかり知らないところであるから、人事をつくして天命を待つ覚悟で、治療に専念せよというものであった。
 これに対し、本書が刊行されると、京都の古方医家畑黄山が、この天命説に激しく反発し、三年後に『斥医断』を著して、全面的批判を展開した。黄山は、吉益子の天命説は、凡庸の医者にとっては自分の医術の未熟さを隠す言い逃れに使われてしまう大きな害を為すものだと批判し、天命説論争が展開した。
 東洞説の背景には、死に近い患者を診て亡くなれば、自分の名に傷がつくから診
ないという風潮があり、東洞は、そういう臆測をもって、患者を診ない医師がいるのでかえって鬼籍に追いやることになると批判しての天命説だった。
 東洞説の支持者は中西深斎のほか、村井琴山『医道二千年眼目』、加屋恭安『続医断』ら、黄山説支持者は山脇東門(『東門随筆』)、亀井南冥(『続医断』)らで、江戸時代最大の医学論争となった。
 現代でも、尊厳死や延命治療、終末期医療をめぐる論争はつきない。患者の死を前にして、医師はどうあるべきか、江戸時代の医師も真剣に向き合っていたのである。
佐賀藩医上村春庵の出自
 吉益東洞の門人録をみているとあらたなことに気がついた。うえむら病院の先祖に上村春庵がいる。吉益東洞に学び、長崎に出て、西洋医学を学び、佐賀藩医となって活躍した名医で、以後同家は代々佐賀の医家として現代につながっている。この上村春庵は、江州(近江、滋賀県)の出身とつたえられてきた。たしかに、吉益東洞の門人録の宝暦12年(1762)の入門者のところに「244 上村淳平 改春庵 江州麻布飯倉片町之人」とあるので、宝暦12年に、東洞に入門後、淳平から春庵と改名したことがわかり、「江州麻布飯倉片町の人」とあるので江州の人であると思ったが、麻布飯倉片町は現在の東京都港区の町名なので、江州は武州の書き間違いで、春庵は武蔵出身だったかもしれない。原本は東京大学図書館にあるようなので、いつか機会をみて調査をしたいと考えている。
【参考文献】鶴田元逸については、『佐賀医人伝』(佐賀新聞社、2018年)、天命論争については、青木歳幸『江戸時代の医学』(吉川弘文館、2012年)。上村春庵については、『うえむら病院二百五十年史』(うえむら病院、2015年)。
  


徳島関寛斎と井上不鳴調査

2018年11月10日

 洋学 at 06:18  | Comments(0)
◆今日(9月7日)は徳島での種痘資料調査。朝早く関寛斎像を探しに出掛けた。城東高校の東側で中徳島地区の河畔に大きな寛斎像があった。解説をみると、城東高校のグラウンドの一部で関寛斎は開業していて、種痘や患者の治療にあたっていたらしい。
◆城東高校に戻ると、高校生や先生が正門で、登校してくる生徒に挨拶している。ああ、こんな光景、私もあったなあと懐かしくなった。
◆朝食後、徳島市立徳島城博物館へ車で向かった。まだ時間があったので城内を散歩。このあたりは6000年前は海底から盛り上がったばかりだったらしい。この岩陰には貝塚遺跡があって、徳島出身の考古学・人類学者鳥井龍蔵博士が発掘した記念すべき貝塚だそうだ。貝塚の隣に鳥井博士の記念碑も建っていた。ぐるりと一回りして、9時10分ごろ、徳島城博物館の正門前にでた。
◆開館時間は9時30分から。さてどうしよう。博物館前のベンチに座ったら、目の前の桜の木の根っこ周辺に、キノコがこんもり、わっさわっさと出ていた。誰も気味悪がって採ってない。ああ、これはヤブタケだ。ナラタケモドキともいうけれど、立派な食用。8月末から9月にかけて、ほかのキノコに先駆けてでるので貴重なキノコ。ナラタケほどではないが、味噌汁に入れるとまあまあ美味しい。採って帰るのもちょっと難しいのでそのままにしておいたが、誰か気がついて食べるだろうな。
◆そうこうしているうちに開館時間になった。まずここの学芸員小川さんにアポなしだったが、面会を頼んだら、出てきてくれた。やあやあ、というわけで、時間を割いて展示を案内してくれた。洋学史研究会の会員だったことから知り合いだったのだが、今は美術展などを中心にお仕事をされているので、洋学はさっぱりと謙遜していた。しかし、『洋学研究事典』の徳島の項目を御願いしたら、文書館の館長さんらと分担して引きうけてくれた。そのお礼もかねて立ち寄った次第。
◆あわせて、関寛斎や井上不鳴の史料について相談したら、関寛斎の書籍や史料を紹介してくれ、コピーをいただいた。井上不鳴はよくわからないけれど、滝薬師というところに碑があるらしいと教えてくれた。
◆井上不鳴の碑を探しに滝薬師へ向かった。狭い寺町の通りの奥に滝薬師があった。碑文があるかもと、近くの和田之屋さんという茶店の女将さんに聞いたら知らないという。どうしようかなと店内を見回すと、さだまさしの「眉山」という本もあった。昔、映画化されたとき、この店もロケ地になったとか。北野大などのサインもあった。ああ、意外と名店なんだなと思って、まずは名物の滝の焼き餅を抹茶でいただくことにした。滝の焼き餅は蜂須賀公がこの地を治め始めたときからの献上品だという。400年変わらずこの滝の名水でこねて焼いてきたという。焼きたてと抹茶が美味しかった。
◆さて、元気がでたので、石段を昇ること15分、いけどもいけども、それらしき碑文は見えてこない。やがて道のない行き止まりの場所になってしまった。もう先は行かん、いかんともしがたい、井上不鳴はやはり不明だと、とぼとぼ100段以上もある石段を降りた。一番下まで降りて車の近くまで来たら、なんと目の前にあった。山に向かって建て

てあったから気がつかずに通りすぎたのだった。
◆やれ嬉しやと写真をとろうとしたが、あら、残念、碑文の部分がすっかりはげ落ちてしまっていて跡形もなく、まったく読めない。残念無念で、滝薬師をあとにして県立図書館に向かった。
◆県立図書館では、関寛斎関係書籍を、たくさんだしてくれてあった。なかでも『阿波の洋学史研究』と『徳島県医師会史』が参考になったので、かなりコピーーさせてもらった。
◆県立図書館周辺は文化の森公園といって、県立博物館や県立美術館も建っている。その公園の一番奥に徳島県文書館があったので、ちょっと疲れていたが、向かった。建物は昔の県庁を移築復元したようだ。文書は整理されていたので、種痘や関寛斎などとキーワードを入れてみた。が、なんにもヒットしなかったので医と入れて検索したらかなりの古文書がヒットしたので、医師の開業願などを撮影させていただいた。  


丸亀の種痘医 河田雄禎

2018年11月10日

 洋学 at 00:09  | Comments(0) | 医学史 | 科学史 | 漢方医学 | 洋学 | 文化史 | 地域史 | 日本史 | 蘭学
◆今日は丸亀の種痘医河田雄禎墓碑調査。丸亀駅についてレンタカーで浄土宗寿覚院へ。墓地内を探索させていただくと、見付かった。墓には雄禎でなく河田宅治とある。
◆碑文を読むと緒方洪庵門人で、洪庵から牛痘を分けてもらって、嘉永3年2月に讃岐で最初の種痘をした人物であることなどが書いてあった。
◆墓碑が新しくなっていたので、もしかして御子孫が健在なのだろうかと思い、御子孫の河田さんの住所を住職さんをお尋ねしたら、連絡をとってみますとのこと。連絡がきたら、また丸亀に調査にこなくては。それはそれで新しい資料が見付かる可能性があるので楽しみではある。
◆ちょっと古い『香川の郷土の人物』の図書記事によれば、河田雄禎宅治の旧医院は、吉田病院の近くにあるという。その記事をたよりに、初めて丸亀市内を歩いてみた。しかし、吉田病院は大きな病院ですぐわかったが、どうにも河田医院の痕跡がない。近くの古い御菓子屋さんに入って聞いたら。図書の記事の吉田病院は吉田病院のケアハウスになっていて、現在建っている大きな吉田病院のところが旧河田医院だったという。
◆というわけで旧河田医院跡を確認したあとは、一路、徳島へ。明日午前中に徳島で関関斎と井上不鳴という医師の調査をしてから高知へ向かう予定。関寛斎は知る人ぞ知る有名人だが、井上不鳴は不鳴だけにほとんど不明。  


第8回在来知歴史学国際シンポジウムのお知らせ

2018年11月10日

 洋学 at 00:05  | Comments(0)


..
◆この11月10日(土)、11日(日)と佐賀大学理工学部大講義室(生協カササギホール斜め前)にて、第八回在来知歴史学国際シンポジウム(ISHIK2018inSAGA)が開催されます。
◆中国側から13人、日本側から13人が、科学技術や工学、医療、経済等における在来知の果たした役割について発表します。
◆私は基調講演で「九州の種痘と在来知」について、話します。入場無料ですので、ぜひおでかけください。(車でおいでの場合は入構料200円別にかかります)
◆10日10時からの開会式典で、在来知研究を促進させてきた長野先生の追悼セレモニーをする予定でその準備をしています。関わりのある方もよろしかったらご参加ください。なお、しのぶ会はまた別の機会に行われます。
  


廻里津日記にみる医療、種痘

2018年07月05日

 洋学 at 14:43  | Comments(0)

福田善次編『廻里津(めぐりつ)諸日記』(福田善次、平成30年6月)を片倉日龍雄さんからご恵与いただいた。有り難いことである。『廻里津諸日記』は、佐賀県杵島郡白石町廻里津の溝口医院の所蔵になるもので、「はじめに」によれば、安政6年(1859)2月から明治5年(1872)8月まで13年間にわたっていて、白石代官所(明治元年から横邊田代官所)、明治2年(1869)5月から郡令所、さらに同3年(1870)10月から横田邊出張所(5年3月から塩田出張所)からの通達が主となっている。
医学史に限ってみると、いくつか面白い記事が目に付く。『医学史会報』115号に多久島澄子さんが、この本から安政6年(1859)の暴瀉病記事(同書7頁)を投稿紹介した。
「一 近来暴吐瀉之病致流行候哉ニ相聞、右病性者元来伝染いたすものニ者無之、専、其人々兼而養生之不宜処より発る故ニ、左之通心得候様
一、右之病ヲ予メ防キ候ニ者、平正之養生者勿論、炎暑之折無理ニ骨折ル事なく、二便之通利に能々気を付、飲食之度過さる様ニいたし、焼酒を飲間敷、熟セさる菓物・思和敷からさる魚肉類・又々油ごゆきものを食せさる様ニいたし、夜更ての食事能々慎候様之事
一、自然右之病感し候様覚候半者、早ク惣身ヲ温むる様ニいたし、或者、湯を以て手足を温メ、若、医師間ニ合ざる時者、左之薬を相用候様之事
一刻ミ精大麦五匁
一細末アラビアゴム壱匁
  右者水三合入弐合ニゼんし、カミルレ花五分右ゼんし、汁ニ而扼((あく))出一昼夜ニ相用候様之事
右之通被相達候条、懸り/\懇ニ相達可申候、已上
        未七月二日     代官所
                     別当源六」

上記は、安政6年(1859)7月2日、白石代官所から廻里津への通達であり、暴瀉病に対してアラビアゴムやカミルレ花(別名、カモメール、発汗剤)などの西洋薬を服用することなどを達している。前年に発足していた佐賀藩西洋医学校好生館からの達しの記録で、各所の日記等に同様の記事が見られる。
 そのほかに、万延元年(1860)7月26日に弾馬様(神代鍋島賢在)や元治元年(1864)3月4日に加賀守殿(小城藩主10代鍋島直亮)などの死も記されている。
 今回、最も注目したのが、慶応元年(1865)6月19日(カ)次の記事である。
☆引痘方之儀厚以 思召先年来御施ニ被仰付置、御領中端々迄痘難相免、御仁恵之御仕与ニ付而、左ニ書載之通、段取を以好生館相納候様、尤、難渋之者者其懸々々より見計を以達出相成候ハ丶、御施被仰付候条、此段其筋可被相達候
一、正金五拾疋 右者御家老以上
一、正銀五匁 右者着座中
一、正銀四匁 右者侍・手明鑓
一、同 弐匁 右者御歩行以下平人迄
郡方代官所

 引痘方は好生館に設けられた種痘実施役所で、藩医の中から一年に10人前後、領内を回って種痘を施す医師(一順医師という)が任命された。安政6年から万延元年(1860)まで、領内を種痘して歩いた松尾徳明がその出張日記『引痘方控』を残し、それをみれば1224人余に接種していることがわかる。これら種痘医師は、接種者からはお金を取らず、すべて無料であった。医師の出張費用やらは、引痘方が出していた。
 こうした藩による無料の種痘実施により、文久3年(1863)には山代郷の立岩村では、全員種痘を実施しおえている。おそらく慶応元年(1865)には、佐賀藩領での種痘が一段落したので、領内から種痘実施費用を徴収したものとみられる。
 その額は家老以上は、金50匹(金1両は4分で400疋、50疋は8分の1両、1両を10万円とすると12500円ほど、20万円とすると2万5000円ほど)、着座以上は正銀5匁(金1両はおよそ銀60匁だから5匁は12分の1両、8300円ほど)、侍と下級武士である手明鑓からは銀4匁(15分の1両、6600円ほど)を徴収し、歩行と平人からは2匁(30分の1両、3300円ほど)を徴収することにしたのだった。
 当初は無料で組織的に実施を続け、種痘が一段落し、成果が出た後で、高給取りの武士からは多く、一般からは低額を徴収したということになる。なぜ、佐賀藩が全額無料で実施しえたか、最後には、ちゃんと領民全員から徴収するようにしていた。ただし貧民からは、徴収係が見届けて徴収しなくてもよいことにしている。
 平成10年に白石古文書研究会の女性3人が『廻里津日記』を解読出版しているが、本書はその一部を取り上げたものという。とすればおそらくこれらの記事以外にも医学・医療関係記事が見つかるかもしれない。ぜひ、拝見したいものである。


  


『原典対訳・バスタールド辞書』

2018年07月03日

 洋学 at 05:55  | Comments(0)
◆中津市歴史資料館分館医家史料館叢書XVII、ミヒェル・ヴォルフガング編『原典対訳・バスタールド辞書』(中津市教育委員会、平成30年3月)が出た。A4版で444頁もある。
◆解題「中津『バスタールド辞書』の背景について」が、中津藩の蘭学で、蘭学の化け物と言われた前野良沢の蘭語学習と藩主奥平昌鹿、薩摩藩主奥平重豪の二男で中津藩主となった奥平昌高の西洋人(ドウーフ、スチュレル、シーボルト)との交流、『バスタールド辞書』の出版の経緯、『バスタールド辞書』の編集に携わった人々として大江春塘、馬場佐十郎、ローデウエイク・メイエルの『Woordenschat(語彙宝箱)』、『バスタールド辞書』の諸相などをまとめ、わが国近世における簡潔で史料に基づいた蘭語訳史ともなっている。また中津の一医家がこのような辞書を編集したことに、地域蘭学の質の高さを知ることができる。大変な労作。
  


『天然痘との闘いー九州の種痘』の刊行

2018年07月03日

 洋学 at 05:42  | Comments(0) | 医学史 | 科学史 | 洋学 | 文化交流史 | 地域史 | 日本史 | 蘭学 | 種痘
◆ようやく青木歳幸・大島明秀・W.ミヒェル編『天然痘との闘いー九州の種痘』(岩田書院、2018年6月、7200円+税)が刊行された。私が代表の科研費C「九州諸地域の種痘伝播と地域医療の近代化をめぐる基礎的研究」の研究成果である。
◆内容は、九州の種痘概要(青木歳幸)、天然痘(相川忠臣)、人痘法の展開(青木歳幸)、ヨーロッパ人が観た日本における天然痘(W.ミヒェル)、牛痘伝来前史(青木歳幸)、牛痘伝来再考(青木歳幸)、長崎と牛痘(相川忠臣)、大村藩の種痘(山内勇輝)、佐賀の疱瘡神(金子信二)、佐賀藩の種痘(青木歳幸)、多久領の種痘(青木歳幸・保利亜夏里)、長州藩の医学館と種痘(小川亜弥子)、小倉領の種痘(青木歳幸)、武谷祐之と福岡藩における牛痘の導入(W.ミヒェル)、久留米藩の医学(吉田洋一)、中津藩における天然痘との闘い(W.ミヒェル)、熊本藩の治痘(大島明秀)、天草の種痘(青木歳幸)、若山健海と宮崎の種痘(海原亮)、薩摩藩黒江家文書にみる種痘(今城正広)、薩摩藩の種痘(田村省三)、人痘と牛痘の比較と評価(W.ミヒェル)の各論考がある。
◆とくに従来研究史上で確定できていなかった牛痘伝来日が嘉永2年6月23日(西暦1849年8月11日)で、最初の接種日が6月26日(1849年8月14日)であることが柴田方庵らの長崎滞在日記等日本側の史料で確定できたこと、天草の種痘と大村藩の種痘は種痘山の設置などの隔離政策やらで交流しあい、牛痘伝来後もやはり大村藩の影響をうけて牛痘接種を開始したこと、ポンペが再帰牛痘法を実施した安政5年には、小倉領の医師が同様の方法を試みていたこと、従来不明だった宮崎県域の種痘史料が今回見出され、長崎や薩摩藩領からの伝播であったことなど、九州各地への種痘伝播の実態と経路を明らかにできたことがなによりも大きい。
◆種痘は技術だから、あまり影響はなかったのではないかという見方もあったが、中津では種痘技術を高めるために民間医らが医学校を創立しさらに付属病院もつくり、熊本でも種痘を学んだ医師らが教師だった吉雄圭斎を古城医学校の校長に招くなど、種痘普及により西洋医学の有用性が、庶民や行政にも理解され、地域医療の近代化につながった大きな要因となったことを確認できた。
◆さらに、佐賀藩や長州藩にみられる組織的な種痘実施のしくみは、わが国予防医学や衛生行政の発達にも、大きく寄与していたのだった。
◆論文調であって読みにくい向きもあろうが、種痘導入の出発地である九州の種痘の状況を把握することで、全国的展開の基礎的知識を得ることができる。たとえば、種痘成功後、長崎では種痘所を7日目ごとに開き、種痘を長崎の人々に実施した。この7日目ルールは種痘の広がりを調査するとき、共通の留意すべきことである。
◆各地の学芸員さんはほかの誰よりも史料の存在を知っているので、学芸員さんとの協働で、宮崎県黒江家文書のように博物館所蔵種痘資料を新史料として紹介できたことも大きな成果を生んだ重要なことであった。
◆今後も、中国・四国、近畿、中部・東海・北陸、関東、
東北、北海道の各所の種痘伝播の過程と地域医療の実態について、各地の学芸員さんや地元の研究者らとともに調査を続け、研究報告書以外にも、このような本を刊行し、全国的な種痘研究の基礎資料を集成し、各地の地域医療の近代化の諸相を明らかにしたいと考えている。
◆ちょっと専門書的で高額なので、お知り合いの図書館などへもおすすめくださってお読みいただければ幸いです。