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洋学

書評『種痘伝来』

2015年06月27日

 洋学 at 11:43 | Comments(0) | 医学史 | 書評
日本歴史』7月号が届いた。約1年以上前に書いた『種痘伝来』の書評がようやく掲載されているので、紹介する(一部書き加えてある)。

アン・ジャネッタ著、廣川和花/木曾明子訳『種痘伝来』
                           青木歳幸
 本書は、著者によれば「種痘を支持・支援するためのネットワークを構築した日本の医師と学者の献身的な活動と、その宿願達成の軌跡を跡づけたもの」(日本語版によせてⅴ頁)である。
序章では、中国人とオランダ商人が長崎で交易を行う排外政策(鎖国政策)をとっていた江戸時代の特質に触れ、ペリー来航以前のジェンナー牛痘法普及というさほど劇的ではない「開国」を蘭方医のネットワークを通して検証している。
 第一章「天然痘に立ち向かう」では、人痘の痘痂粉末を鼻孔に吹き入れる中国式人痘種痘法の中国への広がりと、腕に傷をつけて人痘漿を接種するトルコ式人痘種痘法のイギリスへの伝播、つまり1721年にイギリスで実施されたモンタギュー夫人の娘への実験成功などを検証している。また中国式人痘法由来の秋月藩緒方春朔の種痘活動を紹介している。
 第二章「ジェンナーの牛痘ワクチン」では、イギリスのジェンナーによる牛痘種痘法の公表と情報発信活動により、牛痘ワクチンが1798年から5年以内に世界各地へ広がった経過を伝えている。なかでもスペインから中南米、フィリピン、マカオ、広東へ伝えたパルミス医師や、東南アジアとくにバタヴイアへ伝えたラボルデ医師の普及活動が詳述され、興味深い。
 第三章「周縁を取り込む」では、ロシアから中川五郎治がもたらした牛痘書を、幕府天文方通詞馬場佐十郎が『遁花秘訣』(1820年脱稿)として翻訳するなどの活動を中心に叙述している。
 第四章「オランダとのつながりーバタヴィア、長崎、江戸」では、イギリス占領下のオランダ領東インド諸島でのラッフルズ卿による組織的な牛痘種痘普及活動が、同諸島に根付いたことを検証し、オランダ商館長ブロムホフが1820年から毎年痘苗導入を試みている新事実を明らかにした意義は大きい。シーボルトの牛痘接種の試みは失敗したが、シーボルト離日後、江戸での宇田川家の翻訳書刊行や各地のシーボルト流蘭方医らの水平的ネットワークの形成により、19世紀初頭の数十年間に、西洋医学・学術への内的障壁が取り除かれていく過程を描いている。
 第五章「ネットワークを構築するー蘭方医たち」では、牛痘を導入するために尽力した蘭方医として日野鼎哉、伊東玄朴、大槻俊斎、佐藤泰然、緒方洪庵、桑田立斎、笠原白翁ら七人の医家の医療活動を牛痘導入のネットワークの視点から紹介している。
 第六章「種痘医たち」では、1849年(嘉永2年)、長崎に来した牛痘ワクチンを佐賀、京都、江戸など日本各地へ伝播させるために、楢林宗建ら蘭方医たちが、それまでに築き上げていたネットワークを活用して、種痘技術を向上させ、啓蒙書を出して大衆を説き伏せて急速に伝播させたその努力と活動を追跡した。
 第七章「中央を取り込む」では、伊東玄朴ら日本の種痘医らが1858年にお玉が池種痘所を設立し、徳川幕府を取り込んでいったことが、東京大学医学部に至る日本における近代医学と大学制度整備に直接つながったことを描いた。
 以上が本書の概要であるが、村田路人・廣川和花氏が、本書の意義を巻末解説で次の四点にまとめている。その第一は日本の牛痘種痘史をグローバルな観点から世界の牛痘種痘史のなかに位置づけたこと、第二は、近世日本の医家ネットワークの重要性を再認識させたこと、第三は新たな史料を活用し、日本牛痘種痘史に新しい事実を付け加えたこと、第四は、近世日本の学術において「翻訳」の果たした役割を見直し、これを位置づけ直したことをあげており、これらはすでに的確な書評となっているので、本稿では医学史研究上の成果に絞って書評する。 
 本書の医学史研究上の最大の成果は、我が国への牛痘苗伝来日が、1849年8月11日(嘉永2年6月23日)であり、楢林宗建の子建三郎ら三児への接種日がその三日後の8月14日(6月26日)であったと特定したことと考えている。
 じつは、我が国種痘伝来における重要なこの両日が本書刊行まで特定できていなかった。主な研究書をひもといても、富士川游『日本医学史』(1942年)には「翌嘉永二年七月入港ノ蘭船ニテ牛痘痂モーニッケノ許ニ達セリ、由リテ之ヲ三名ノ児ニ種痘セシニ、二児ハ感ゼザリシモ、一児ハ感受シテ善良ノ痘ヲ発セリ」とあり、嘉永2年7月の伝来とし、種痘実施日も不明であった。古賀十二郎『西洋医術伝来史』(1942年)・添川正夫『日本痘病史序説』(1987年)・深瀬泰旦『天然痘根絶史』(2002年)はいずれも嘉永2年6月伝来としたが、伝来日を特定していない。
 種痘実施日については、じつは諸研究書でも記述が少なく、渡辺庫輔『崎陽論攷』(1964年)が6月23日とし、深瀬泰旦『我が国はじめての牛痘種痘』(2006年)では、7月7日、17日、19日説と古賀十二郎の6月下旬説を紹介したが、特定にはいたっていない。
 この混乱の理由解明と検証は、本書評の紙数を超えるので、別稿を用意する予定だが、評者はオランダ商館日記や、長崎奉行所の記録、柴田方庵の『日録』などの調査により、著者の記述が正しいことを裏付けており、本書のこの記述を高く評価している。
 一方で、本書は、牛痘伝来後の日本各地への伝播の様相については、主に『洋学史事典』(1984年)、『天然痘ゼロへの道』(1983年)など約30年前の研究に依拠した面が多々あるため、その後進展した研究成果が反映されていない問題がある。
 たとえば、緒方春朔の人痘法は中国式鼻孔吹入法を改良した鼻孔吸入法であったことに触れていない(青木歳幸「種痘法普及にみる在来知」佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要、第7号、2013など参照)。また春朔式人痘法が「彼のいた藩以外にはほとんど影響を与えなかったようである」(26頁)とあるが、春朔の門人が江戸も含めて六九人余もおり(富田英壽『種痘の祖緒方春朔』西日本新聞社、2005)、大村藩医長与俊民ら三人が春朔に入門し、技術習得後、大村藩で春朔式人痘法を実施しているし、江戸の司馬江漢も「緒方氏ハ六百人をためしぬ」(『種痘伝法』)と記し、シーボルトや華岡青洲門人の本間棗軒も「(人痘種痘で)高名なるは肥前大村の吉岡英伯・長与(俊)春達、筑前秋月の緒方春朔、武州忍の河津隆碩、江戸近村木下川の庄屋次郎兵衛なり」(『種痘活人十人弁』)として春朔の高名を讃えているし、かの緒方洪庵ですら春朔式人痘法を実施(結果は失敗)しており(青木歳幸前掲論文、2013)、春朔式人痘法はかなりの影響を与えていた。
 また日本での人痘法には、春朔式鼻吸入人痘法だけでなく腕種人痘法がじつは蘭方医によってかなり広範に実施され、伊東玄朴も大槻磐渓娘や前宇和島藩主娘に実施し(青木歳幸『伊東玄朴』2014)、本間棗軒も、自家の子女のみならず近在の小児ら六〇〇人に(腕種)人痘種痘を行ったと述べている(『種痘活人十全弁』)。牛痘法普及の前提として人痘法の影響は大きいと考えられ、とくに腕種人痘法の普及が牛痘法普及に直接結びつくと考えているが、その実態解明は進んでいない。
 著者は、佐賀藩主鍋島直正が侍医大石良英を長崎に派遣し、良英が「楢林宗建の長男永吉を伴って佐賀に戻った」(150頁)としているが、じつは佐賀城下に牛痘と種痘児をもたらしたのは良英でなく、楢林宗建が長男でない種痘児を伴って8月6日に佐賀城下へ到着し、翌日に藩医の子へ種痘を実施している(青木歳幸『伊東玄朴』2014)のであり、事実ではない。藩医の子に植えられた痘苗が約一週間ずつの接種→発痘→採取→接種のサイクルを二サイクル経て後に藩主の子に接種され、それが江戸にもたらされ、江戸のお玉が池種痘所につながったのである。
 国内での種痘伝播研究は、かようにまだ十分ではない。だからこそ、本書を手にした国内研究者と著者のようなすぐれた海外研究者との研究ネットワークによって、医学史研究の新たな進展が生まれよう。
[あおきとしゆき 佐賀大学地域学歴史文化研究センター特命教授]
[A5判、254ページ、4320円、岩波書店、2013・12刊]


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