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洋学

緖方塾と佐賀

2016年12月05日

 洋学 at 23:33 | Comments(0) | 医学史 | 科学史 | 洋学 | 文化史 | 地域史 | 蘭学
◆緖方塾と佐賀は大変深い関係があります。佐賀の蘭学の祖と言われる島本良順(龍嘯)は、文政10年(1827)の暮れに大坂に蘭学修業に出ます。良順はすでに長崎でオランダ通詞の猪俣伝次右衛門にオランダ語を学んでおり、医師としても佐賀城下で西洋医としての看板を掲げており、伊東玄朴(1800~1871)や大庭雪斎(1806~1873)に蘭学の手ほどきをしていたのですが、さらに勉強を深めるために大坂に出ました。大坂で開業しつつ、蘭学修業を続けているうちに、良順の評判はどんどんあがり、2年後の文政12年の歌舞伎俳優に見立てた大坂の医者番付をみると、上の段の一番左に橋本曹(宗)吉、ついで島本良順、その右に中天游が記されています。良順の評価は精緻とあり、すでに橋本宗吉、中天游と並ぶほどの実力と評価があったのです。◆島本良順は文政年間の末に、佐賀へ帰って蘭学塾を開きます。その良順を招いたのが、佐賀藩儒者古賀穀堂でした。幕府昌平黌の教師となった佐賀藩出身儒者古賀精里の長男です。古賀穀堂は儒者でありながら蘭学は世界一統の学問として、蘭学学習と医学校の設立の必要性を、藩主らに説き、やがて若い藩主鍋島直正の時代になって、天保5年(1834)に医学寮が設立され、良順が寮監として西洋医学の講義を開始します。◆良順に蘭学の手ほどきをうけた大庭雪斎は、良順が佐賀へ戻るのと前後して、大坂にでて中天游の塾に、緖方洪庵(1810~63)とともに学びました。雪斎は洪庵より4歳年上の兄弟子でした。雪斎刪定の志筑忠雄『暦象新書』の序に、「先師天游中先生ニ従ヒ、緒方洪庵ト同窓シテ、共ニ此書ノ説ヲ受ケ、自ラ謄写シテ家ニ帰レリ」とあり、雪斎は、中天游の蘭学塾で洪庵とともに蘭書を学び、志筑忠雄の『暦象新書』も見ることができました。そのあと、いったん郷里に帰ります。緖方洪庵が中天游に学ぶのが文政9年(1826)から天保元年(1830)なので、雪斎の緖方洪庵との同窓時期はそのころとみられます。◆洪庵は天保元年(1830)から江戸に出て、苦学のすえ、翌年から坪井信道に学びます。中天游が天保6年(1835)に亡くなったため、いったん江戸から大坂に戻り、中天游塾を守り、天保7年から9年まで長崎で修業後、大坂瓦町で蘭学塾適々斎塾を開きます。この年、29歳の洪庵は、中天游門人の一人億川百記の娘八重(17歳)と結婚します。◆大庭雪斎は、弘化2年(1845)から同4年の間、再び大坂にでて、医者を開業しつつ本格的に洪庵の適塾に通いました。当時の雪斎の居所は、『医家名鑑』(弘化2年刊)に「内科今橋二丁目大庭雪斎」とあり、過書町の適塾から数百㍍の場所で、開業しながら、適塾にある原書ガランマチカなどを読み解いたのです。その成果は雪斎訳のオランダ文法書『訳和蘭文語』となります(刊行は安政3,4年)。緒方洪庵は『訳和蘭文語』後編の題言に、「西肥雪斎大庭氏予(洪庵)同窓之友也、幾強仕憤然起志、始読西藉不耻下向不遠千里来游于予門、焦思苦心、衷褐未換而其学大成矣」とかいてあり、洪庵と同門であること、雪斎は西洋の書籍をはじめて読むことを恥じずに、千里の道を遠しとせずに大坂で洪庵門に入り苦労して大成したと書いてあります。雪斎と洪庵のきずなの深さがわかります。◆ですから、洪庵塾で研鑽を積み、実力をつけた雪斎は、洪庵が義弟緒方郁蔵の助けをかりて数十年かけて刊行した名著『扶氏経験遺訓』の毎巻本文には、「足守 緒方章公裁、義弟郁子文 同訳、大庭忞景徳 参校」と校正役として毎巻の最初に記載されるまでになったのでした。
◆雪斎は、嘉永4年(1851)、佐賀藩が西洋科学技術を導入するにあたり、その研究機関である蘭学寮の初代教導となり、安政元年(1854)に弘道館教導となり、安政5年(1858)に好生館ができるとその教導方頭取となり、医学生延べ650人にもなる幕末期における我が国最大の西洋医学校である好生館の校長として、西洋医学教育を推進したのでした。◆一方、適塾で門下生を指導していた緖方洪庵は、江戸に呼ばれます。呼んだのは、古賀穀堂の弟の古賀謹一郎と、佐賀藩医で奧医師の伊東玄朴でした。古賀謹一郎は、プチャーチンが来航した嘉永6年(1853)に交渉役の川路聖謨に随行し、長崎までやってきて反射炉もみて帰ります。謹一郎は、西洋研究の重要性を老中らに説き、やがて洋学所焼失後の洋学研究機関である蕃書調所の設置にこぎつけ、謹一郎が校長として、箕作阮甫と杉田成卿を教授として、全国から優秀な蘭学者を集めます。安政3年(1856)に最先端の洋学研究所が作られました。安政5年(1858)に伊東玄朴らが江戸お玉が池種痘所を開設したのは、川路の屋敷でした。玄朴らは、ここを拠点に西洋医学を発展させるために、万延元年(1860)には、幕府直轄の種痘所にし、文久元年(1861)に西洋医学所に発展させたのでした。しかし文久2年にこの頭取の大槻俊斎が亡くなったので、玄朴らは緖方洪庵を次の頭取にと招いたのでした。最初は断っていた洪庵でしたが、西洋医学推進のため、江戸に下ります。しかし、まだほとんどなにもできていないなかでの苦労が重なり、文久3年(1863)の6月、突然の大喀血で洪庵は亡くなります。54歳でした。この洪庵の追悼の墓碑銘を書いたのが古賀謹一郎でした。幕末の西洋医学、西洋学術推進に、


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