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青山霊園と佐賀藩2ー谷口藍田

2016年12月18日

 洋学 at 23:29 | Comments(0) | 医学史 | 文化史 | 地域史 | 日本史

◆青山霊園はとにかく広い。墓地番号を知らないとただただ歩きまわることになる。そのほうが、思いがけない出会いもたしかにある。佐野常民の墓(一種イ五号二六側・二七側一番)を探していると、一種イ自5号至6号に、谷口藍田の墓があった。墓碑銘の裏にまわると、「明治三十五年十一月十四日没、享年八十一歳」とある。そうか、享年をつけても歳を省略せずにちゃんとつけている。漢学者の墓碑であるので、こちらが正式なのかもしれない。
◆谷口藍田は、ウイキペディアによると、有田(佐賀県西松浦郡有田町)の医師三宅省庵の二男で、母が武雄の儒医清水龍門の姉で縫という。名は中秋、字は大明、別号に介石。幼名は秋之助。佐賀藩士谷口寛平の養子となったとあるが、じつはちょっと三宅省庵の二男説に違和感があったので、現在、編集中の『佐賀医人伝』のうち、三宅曹悦の項目を開いてみた。
◆『佐賀医人伝』の三宅曹悦の項目を執筆した多久島澄子さんの調査によると三宅省庵の長男が曹悦で、二男が陶渓で、陶渓の長男が谷口藍田で、一八歳で眼科医木下一普の娘益と結婚、眼科医を目指すが、継ぐことをきらって、全国を歴遊して儒学者・教育者として名を残したとあり、しっかりした調査に基づいての記述であるので、多久島さんの執筆が正しくて、ウイキペディアの三宅省庵の二男説は誤りであろう。
◆藍田は、幼児から神童とうたわれ、英彦山の玉蔵坊に儒学を学んだあと、広瀬淡窓の咸宜園に入って塾頭を務めた。天保14年(1843年)、江戸に出て羽倉簡堂に入門し、佐藤一斎、伊東玄朴、大槻磐渓らと交流し、嘉永元年(1848)に佐賀藩校の弘道館に入り、草場佩川らに学び、嘉永4年(1851)に私塾を開いた。明治2年(1869)、鹿島藩校弘文館の教授となった。その後、沖縄・熊本・大阪などの各地で儒書を講義し、明治29年(1896)、東京に私塾・藍田書院を開いた。明治35年(1902)11月14日、麹町相模屋で入浴後に脳溢血で倒れ、死去した。
◆藍田全集もでており、藍田の撰文になる墓碑なとも、清水龍門の娘婿立野元定、医師松本省吾碑などをはじめ多い。気になっていた人物であり、思いがけない出会いにびっくり。


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